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2018/12/26

黒い聖母

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ヨーロッパ各地で約450体の黒い聖母マリア像が存在してます。
ブルゴーニュの黒い聖母崇拝の中心地で生まれたクレアヴオーの聖ベルナール(1091〜1153)はシャティヨンにある黒い聖母の像の胸からこぼれ落ちた母乳を三滴飲む霊的体験を幼少時に受けたと伝えられています。
聖ベルナールはマグダラのマリアと同一視したベタニヤのマリアへの忠誠をテンンプル騎士団に規則としてあたえました。テンプル騎士団が崇拝したといわれるバフォメット(Baphomet)はソフィア(Sopia)を暗号化したものといわれています。黒は古代の知恵の象徴でした。

テンプル騎士団はコンポスティーラの巡礼地を保護しました。巡礼地に沿ってテンプル騎士団の支部と黒い聖母崇拝の教会が点在しています。フランスの出発点のヴェズレーはマグダラのマリアの崇拝が盛んな場所で黒い聖母の聖地ともなっています。黒い聖母はテンプル騎士団が崇拝しマグダラのマリアと古代の智慧と関係していました。

アルトエッティングは「バイエルンの(信仰の)心臓」と呼ばれ年間100万人の巡礼者が訪れるドイツで最も知られた巡礼地です。巡礼の目的は「黒い聖母」です。

中世パリのサンジェルマン教会には1514年まで黒いイシス像を聖母マリア像として飾られていました。シチリア島ではマリアの聖母子像のかわりにデメテルの母子像を奉る事が許されていました。母が子を抱くイシスやデメテルの像はマリアの聖母子像に似ていたのでキリスト布教初期には同一視されたのです。

ギリシア神話に登場するデーメーテールは地母神の神格を受け継いだ穀物をつかさどる豊穣女神です。ギリシア語のDeは三角形のdeltaのDeで「女陰を表す文字」でmeterは「母親」の意味です。デーメーテールの古い異名はメライナ(黒い者)で黒い衣服に身を包み頭に蛇がからみついた姿をしていました。デーメーテールの古い祭儀の場所は洞窟や、丸天井式地下納骨堂で入り口が三角形で通路が膣状で短く、丸天井になっていました。暗い洞窟も丸天井も女神の子宮を表しています。そこで死と再生の祭儀を行っていたのです。

フランスの巡礼地として古くから聖母マリア信仰が栄えたル ・ピュイ・アン・ヴレイの聖母も黒いマリアです。スイスのアインジーデルンのベネディクト会修道院、ヨーロッパのピレネー山脈東部、プロヴァンス地方の山間部の教会やブルターニュ地方ギャンガン、スペイン・カタルーニャ地方のモンセラートにも黒いマリア像が置かれています。それらはかつてケルト以前から続く古代の聖地だった所です。

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黒い聖母崇拝は古代の地母神信仰の痕跡で常に癒しの水や川の合流点、火山など、大地のエネルギーと関係していました。穂麦のマリア、マリアの泉、ブナの聖母、満月に照らされている泉は若返りの力があるなどの聖母マリアの伝説はヨーロッパ中にあります。キリスト教以前の古代ヨーロッパの地母神信仰はマリア信仰に取って代わったのです。

古代母権社会の大地母神キュベレは、大きな黒い石の姿でローマのパラティン丘の神殿に据えられていました。地母神を受け継ぐアルテミス神殿のご神体は黒い隕石でした。

北アフリカの紅海沿海地方トログロデュタイ人の女たちはとても念入りに黒化粧をしました。黒く化粧をするのは豊穣の大地を表し、昼を生み出す夜の闇と結びついていました。エジプトのイシス、フリギアの大地母神キュベレとその神格を受け継いだアルテミスも肌が黒く塗られていました。アルテミスは月の女神ディアナでもありました。

闇に落ちた人間の罪を救うのは闇夜に輝く月の女神でした。中世の男性社会の罪から救う力があったのは古代の地母神信仰を受け継いだ黒いマリアだったのです。
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2018/12/26

聖母のお告げ

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1854年、教皇ピウス9世によって聖母マリアは無原罪の状態で受胎し、処女を守ったままイエスを出産したという「聖母無原罪のお宿り」信仰を公認しました。

それ以降、おびただしい数の「聖母出現」の奇跡が頻発しました。19世紀のマリア出現はルルドの奇蹟をはじめ20回以上に及びます。その出現は20世紀に入っても衰えず、カトリックではマリアの時代とよんでいます。
以前から聖母マリアは、悪魔を打ち破り、あらゆる災いから人々を救済し、信者を天国に導いてくれる女神として、熱烈に崇拝されていました。

ポーランド最大の巡礼地ヤスナ・グラ修道院の「チェンストホヴァの黒い聖母像」は毎年1千万人を超えるカトリック信者が、世界各地から訪れます。ポーランドは東欧圏で最初に法皇となったヨハネ=パウロ二世の祖国でした。
1981年5月13日ヨハネ=パウロ二世はバチカンのサン・ピエトロ広場にて、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャから銃撃され重傷を追いましたが奇跡的に弾丸はわずかに心臓をそれました。この日はロシア革命のすぐ後にファティマに聖母が現れた記念日でした。法皇は弾丸で穴が空いた布を「チェンストホヴァの聖母」に捧げました。
ヨハネ=パウロ二世は説教でマリアを熱心に賞賛しました。共産主義が現れたのも、第二次世界大戦も法皇の母国ポーランドの共産圏が崩壊したのも法皇にはすべて聖母マリアの思し召しと映ったのでしょう。

ロシア最後の皇后アレクサンドラはプロテスタントからロシア正教に改宗して「この地の哀れな民度の低い未開のロシアの人々を救うために神の聖母はかならず立ち上がってくださいます」と手紙に書いています。それからロシア革命が起きて多数の聖堂や修道院が閉鎖され、52人の主教のうち40人が銃殺されて信徒多数のほか皇后アレクサンドラ一家全員も処刑されて財産は没収されてしまいました。
聖母が立ち上がるように祈っても必ずしも命が助かるとは限らないようです。

終末の世に太陽を身にまとった聖母マリアが現れることがヨハネの黙示録に書かれています。「また、大いなるしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた」 (ヨハネの黙示録12章1)。
この黙示録から「勝利のマリア」と呼ばれるマリア像が作られました。マリアに抱かれた幼子のキリストは槍でドラゴンを突いています。マリアが踏む月は征服されたアルテミスなど月の女神を象徴しています。ドラゴンはキリスト教にしたがわない異教徒でした。

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ちなみに1941年12月8日に日本軍がハワイの真珠湾攻撃をしたその日は聖母マリアの無原罪の姿りの祝日でした。終戦の引き金となった長崎の原爆は聖母マリアのために献げられた浦上天主堂の真上に投下されました。そして戦争が集結した、1945年8月15日は聖母マリア被昇天の大祝日で、戦争状態を終結させるためのサンフランシスコ講和条約が行われた1951年9月8日は聖母マリアの誕生日でいずれも聖母マリアの記念日でした。

20世紀から21世紀に変わる世紀末はおびただしいほどの聖母のお告げがありました。

肉体を持たない知的存在とコミニュケーションを行なうことを精神世界ではチャネリングとびます。
聖書はそのチャネリングの宝庫です。 (マタイ伝10-20)「語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」 (ルカ伝8-23) イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。 (ヨハネ伝 3-34) 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。(ヨハネ伝 10-38)そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」

自分はキリストであると宣言すれば医者は幻聴や幻覚として精神病の範疇に入れてしまいます。
キリストだと信じている精神病患者が複数入院している患者は自分だけがキリストで、他人をキリストと認めません。
自我は自分が特別だということを求めます。自己を否定されて傷ついた人はひとかどの人物としてまわりから認めてもらいたい評価欲求をもっています。終末論的な世界観は精神病患者の妄想にもあらわれるので、精神科の先生にかかると、声が聞こえた人はすべてパラノイアか統合失調症にされてしまうでしょう。

原始キリスト教の時代はカリスマ性のあるチャネラーが沢山いて一派をなし教会を起こしていました。それぞれ勝手にイエスのメッセージを受け取り、自分が本物でお互いに相手を偽物だと非難していました。そこでチャネリングの真偽を識別する必要がでてきたのです。
(ヨハネ第一の手紙4-1~3)愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。 」
教会の教義に逆らうものは反キリスト、つまりサタンの手先として排除されました。聖母マリアは公認されていたので聖母マリアのお告げといえばよかったのです。

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20世紀から21世紀に変わる世紀末はおびただしいほどの聖母のお告げがありました。その予言はだいたい「世の終わりは近い、悔い改めよ」で聖書の内容とほぼかわりありません。

涙を流しながら世界中に表れた聖母はこう告げています。
オリヴェト・シトラ(イタリア)「世界は奈落の淵にあります。祈りなさい、特に大きな国の為政者のために祈りなさい。なぜなら、彼らは、戦争を計画し、暴力を拡大することに忙しくて、祈る時間がないからです」(1985年11月2日)
ダマス(シリア)「私の子供たちよ、神のことを思い出しなさい。神は私たちと共におられます。あなたがたは全てを知っていますが、同時に何も知っていません。あなたがたの知識は不完全なのです。神が私を御存知のように、あなたがたが全てのことをよく分かる日がくるでしょう。あなたがたに悪を行なう人々を大切に扱いなさい、そして誰に対しても冷たい扱いをしてはなりません」(1982年12月18日)


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私の中の聖母マリア(ソフィア)はこう告げています。
私たちの知覚は思考によって制限されています。
言葉で作り上げた概念で世界を理解しています。
心の中に浮かび上がる考えを真実と思い込んでいます。
世界から切り離されているという間違った思い込みで生きています。
本来の姿から遠く離れた状態で過ごしています。
あるがままの神の世界を分離して見ているのです。
思考に同化することをしないでいると
頭で考えていた自分は存在しないということがわかります。
そのとき、他人の自我も自分の自我も受けいれることができます。
自分がいないということは同時に自分はすべてだということです。
他者を非難したり嫌悪している自分はいません。
絶え間なく浮かんでは消える流れがあるだけで
思考する私はどこにもいません。
すべては神であり、愛であり、虚空であり、全体なのです。
2018/12/21

孤独な鳥の条件

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孤独な鳥の条件は五つある

 一つ  孤独な鳥はもっとも高く飛ぶ
 二つ  孤独な鳥は群れない。他の鳥がいても影響されない。
 三つ  孤独な鳥は風に嘴を向ける。
 四つ  孤独な鳥は決まった色を持たない。
 五つ  孤独な鳥はやさしく歌う。

このサン・ファン・デ・ラ・クルス(十字架の聖ヨハネ)の詩はカルロス・カスタネダの「ドン・ファン」シリーズ「未知の次元」に引用されたので人々に広く知られることになりました。

第三の日本語の訳はどれも「孤独な鳥は嘴を空(天空)に向ける」に訳されています。

スペイン語に堪能なREIKOさんからスペイン語の原文で「aire」は空気や風を意味すると教えていただきました。

そして、迫害されても自分の道を引き返すことなく進んでいった十字架の聖ヨハネの生き方が向かい風でも本能にしたがって飛ぶ鳥を彷彿とするので、第三は空や天空ではなく風と訳しました。

「ギラン・バレー症候群」という難病に掛かって62歳で孤独死した女優の大原麗子さんの衣裳部屋の壁に自筆で書いたこの詩が貼ってあったそうです。生まれ変わったらイヌワシになりたといっていたので孤独に追い込まれたのではなく、彼女は「孤高」を選んだのかもしれません。

一人で至福でいられたら、それは寂しい孤独ではありません。垂直に高く飛んで二元性を超えてしまえば一人でいても群れの中にいても関係なく至福しかないのです。神との一致、つまり全体と一つになっています。

12月14日はサン・ファン・デ・ラ・クルス(十字架の聖ヨハネ)の命日

サン・ファン・デ・ラ・クルス(十字架の聖ヨハネ)は16世紀スペインのキリスト教神秘家で聖書に出てくる12使徒の聖ヨハネとは別人です。
拙著「覚醒の真実」のキリスト教神秘主義の章「魂の暗夜」の節に出てきます。
井筒俊彦やベルクソンなどの神秘主義の研究者は16世紀スペインのキリスト教神秘家十字架の聖ヨハネと聖テレサを西洋の神秘主義における最高峰としています。

清水友邦著「覚醒の真実」ナチュラル・スピリット
https://www.amazon.co.jp/覚醒の真実-覚醒ブックス-清水友邦/dp/486451139X
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2018/10/16

あれも全体 これもまた全体



私たちは成長の段階で、マインド(自我)を形成します。
幼児は本能のおもむくままに行動しますが、
あるがままの自分を否定されると、
愛される自分と愛されない自分に分けてしまいます。

一なるものに境界線が引かれることで病が生じます。
マインドは分離している事に気がつかないので、
母親から離された子供の様に漠然とした不安に襲われます。

マインドは物事に優劣をつけてみています。
マインドは幸と不幸、良い悪い、愉快と不愉快という二元性に分離した思考に囚われています。
マインドは抑圧した影を外側に投影して、自分と他者を切り離して見ています。
マインドは境界を作って内側の自分だけが特別と思っています。
私たちの知覚はマインドによって制限されています。
世界から切り離されているという分離感を現実だと思い込んでいます。

あるがままの世界を分離して見ているのです。
マインドは全体から分離して苦しみ続けます。

その分離感から全体に戻ろうという衝動がおきます。

しかし、戻ろうと思うこと自体が思考なので
そこから抜け出す道はありません。

思考が自分だと思っているので
思考の罠にはまっています。

思考は、今ここにいられません。
未来を悲観して、心が不安におそわれているときは今ここにいません。
今ここにいると思考に気づくことができます。

体が病んで悲観していることに気づいています。
失敗を後悔していることに気づいています。
失って悲しんでいることに気づいています。
将来に対して不安になっていることに気づいています。
思考が次から次へと際限もなく湧き上がってくることに気づいています。
その気づきが私です。

自分という思いは概念であり
他者を非難したり嫌悪しているマインドをあるがままに見ているのが本当の自分だと気がつくと
行為者としての自分は存在しないということがわかります。

いままで自分だと思っていた頭の中の自分はいませんでした。

自分がどこにもいないということは自分はすべてだということです。
すべては虚空であり全体なのです。

自己の全体性を取り戻すと他人の自我も自分の自我も受けいれることができます。

思考は全体を分離させて見ていますが
分離して見ている部分もまた全体なのです。

全体は増えることも減ることもなく
全体から全体を引いても全体が残り
全体に全体を足しても全体が残ります。
全体を分けることはできません。

全体は得ることも失うこともなく
死ぬことも生まれることもありません。

すべての存在は大いなる全体であり
全体以外はありません。

世界をあるがままに見た時
分離した私はどこにもなく
見るものも見られるものもなく
あるがままの全体だけがそこにあります。

『om
あれも全体 これもまた全体
全体より生ずるは 常に全体だからである
全体より全体を取り出すとも
見よ 残るは全体である
om
安らぎよ 安らぎよ 安らぎよ』
イーシャ・ウパニシャッドより

『わしの見地からすれば、
仏もなければ衆生もなく、
古人もなければ今人もない。
得たものはもともと得ていたのであり、
時を重ねての所得ではない。
もはや修得の要も証明の要もない。
得たということもなく、失うということもない。
いかなる時においても、わしにはこれ以外の法はない。』
臨済録より

『是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ)
不垢不浄(ふくふじょう)
不増不減(ふぞうふげん)』
般若心経より

『空を観ずる行為もまた空であって、
空を空と認識することももはや有り得ない。
その認識すら無くなれば、
まさに無の中の無、無の極点に至り、
心は永久に静寂となる』
道教・西派内丹法より

『神は眼に見える形や色を持っていないので
眼からではありません。
音もなくやってくるので耳からでもありません。
空気ではなく精神に混じっているので鼻からではありません。
内側からでも外側からでもありません。
自分よりも高く昇ってみてもそれよりも高い所にいました。
ずっと下の深みにも神はいました。
そして外にも内にもいたのです。』
キリスト教神秘家・聖ベルナルドゥスより

『神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある』
4〜5世紀のキリスト教哲学者アウグスティヌスより
2018/10/16

何ごとも恐れることはない


子供から大人になる青春期や、突然仕事が変わって、いままでの役割が通用しなくなったり、子供が巣立って子育ての役割が失われた母親など、今までの価値観や考え方が通用しなくなるとアイディンティークライシス(心理的な自我の危機状況)に陥ります。

人間の心は階層構造になっており下位の意識構造を越えて成長する時は変容の危機が浮上してきます。

16世紀のスペインの偉大な神秘家、聖テレサは魂の成長を繭に包まれたサナギの状態からチョウに変容する例えで話しています。魂は変容の途上で恐ろしいまでの暗い闇に入ります。

サナギから脱皮するとき「いままでのどんな苦しみよりさらに激しい耐えがたいほどの拷問のような苦しみを味わう」と聖テレサは述べています。

古い自我を超える時には死のイメージが浮上するのです。探求の途上で変容が急激に起きると自我がそれを受け止めることができないので混乱して絶望的な気持ちに襲われます。

新しい自我が再生されるまでは果てしなく永遠と続く迷路に迷い込んだように思います。
自我は起こってくることに不安を感じて恐怖のあまり抵抗します。必死で思考を巡らせますが、それはかえって事態をむずかしくしてしまいます。

変容の危機を通り抜ける最善の手段は宇宙を完全に信頼して、そのプロセスにゆだねることです。

なにが起きても、なにがあっても、逃げないでいまここにいて、自覚を持って受け入れることです。どんな最悪と思えることが起きてもかならずそれは通り過ぎます。

アビラの聖テレサはサナギである自我の死を迎えることで、サナギから小さな白いチョウが生まれて魂は祝福されると証言しています。

神との合一は、魂のもっとも深い中心で起こります。それは比類のない歓喜に満ちたものですが長くは続きません。
聖テレサは神と一つになる神聖な合一を次のように述べています。
「合一は、二本のローソクによって象徴されます。二本のローソクの先を合わせると炎はただ一つになります。しかし二本のローソクが、他のローソクから引き離されると、再び二つのローソクに分かれます。

思考に同一化することをやめてリラックスすると自他を分ける境界が消え観照意識だけがある微細な領域に気がつきます。

聖テレサはこの状態を「知性は働かずに休み、小さな小窓から何が行われているか覗かせてくれる」と表現しています。
キリスト教神秘主義の聖婚に至る段階は「交際」「婚約」「結婚」に例えられます。そのプロセスを浄化、照明、神との合一と表現します。

「神との融合は 雨水が、川の流れの上に、降り注ぐようなものです。同じ一つの液体になりきってしまうので、再び雨水と川水に分れることはないのです。あるいは大きな二つの窓から光が注ぎ込む部屋のようなものです。分かれて入って来た光は部屋のなかで一つになります。」

最後に小さなチョウは炎に向かって進み再生するために光の中で幸福に死にます。

聖テレサは最後の「合一」の段階の上に「合一の生活」を置きました。神と融合した状態で日常の生活に帰った状態です。
禅の十牛図の最終段階である悟りを、日常の生活に生かす「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)のようです。

10月15日はアビラの聖テレサの祝日です。
聖テレジアは1582年に67歳で亡くなりました。9ヶ月後、掘り起こされましたが記録によると遺体は腐敗していませんでした。

『人生のあゆみ
何ごとも心を乱すことなく
何ごとも恐れることはない
すべては過ぎ去っていく
神のみ変わることがない
忍耐はすべてをかちとる
神をもつ者には
何も欠けることがない
神のみで満たされる』アビラの聖テレジア