2016/07/30

極楽は今ここに在る  法然上人

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法然上人( 1133~1212年)は 1133年美作に生まれました。岡山県久米郡久米南町の生家後に誕生寺が建立されています。

幼い時に父親が夜討ちに会い目の前で殺され深いトラウマを残します。法然上人は九歳で出家して比叡山で修行しました。
その頃の平安仏教は形骸化していて比叡山には権力や名誉欲の虜になった貴族の子弟が集まっていました。
法然上人は全仏典を繰り返し読破し、お堂に篭って熱心に念仏を何時間も唱えました。そして43歳の時に山を下りました。

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法然上人はこんなことを言っています。「人間には与えられている運命というものがあって、病気を治してほしいと、どれだけ神仏に祈ったところで同じなのだ。祈って、病気が治ったり、寿命が延びたりする事があれば、誰一人として、病気で死ぬ人がないはずだ。」

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法然上人が掲げる救いの条件はただ一つ声に出して念仏を唱えるだけの非常に単純な専修念仏でした。日本仏教で最初に組織的な弾圧を受けたのは法然上人でした。それだけ法然上人の専修念仏は平安社会を揺り動かす破壊力と影響力がありました。

法然上人は数日間念仏行を行う別時念仏と呼ばれる集中的な念仏行を繰り返し行っています。
法然上人の死後に出てきた「三昧発得記」によると法然上人は荘厳な浄土のヴィジョンを見ていました。それは目を閉じても見え、目を開いてもこれを失いませんでした。数日間眠らずに念仏を唱えた結果、非物質的なサトル(微細)の領域に入ったのです。

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大般若経によると菩薩には肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼の五つの眼があると説かれています。
肉眼、天眼が自然界を見る眼で、法眼が開くとこの世界が浄土の荘厳な様子のように黄金の光に満ちて美しく見えます。慧眼が開くと眺めている世界と眺められている世界が一つで光明そのものである事がわかるようになります。仏眼では見るものと見られるものすべてが光明に溶け込んで一つになっている世界です。
法然上人は物欲にまみれた娑婆世界と光明に満ちた浄土世界の両方を見ていたのでしょう。

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法然上人は75歳の時に僧侶の身分を剥奪され四国へ流罪になります。
ところが法然上人は悲観するどころか「これは非常に有り難いことである。そういう人たちにやっと出会える機会が与えられた。朝恩だ。天皇さまのお陰だ」と前向きにとらえてます。
法然上人が流罪で播磨の国に着いた時、遊女の船が近づいてきました。遊女が問いかけます。「世間にはいろんな職業があるのに、どうして、私たちは汚らわしい身となったのでしょう。どうすれば救われるでしょうか?」
法然上人はこう言いました。「そのような生活では罪も深いでしょう。出来るものならやめたほうが良いのです。しかし、他に食べてゆく道がないのなら、今のまま念仏を唱えなさい。阿弥陀如来はあなた達のような女人を救おうと祈願したのだから、決して自分を卑下することはありません。信じて念仏しなさい。かならず、極楽往生しますよ。」

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法然上人は八十歳、弟子の親鸞上人は九十歳と念仏の開祖は十三世紀の中世においてとんでもない長寿を遂げています。
悪い事をすれば地獄へ良いことをすれば臨終の時に雲間から光明がさし阿弥陀如来が現れ西方浄土へ旅立つと世俗の教えは説きます。
法然上人は臨終の時に「極楽に行けるのですね」と弟子が質問すると「私は極楽から生まれ、極楽の世界に生きた。また極楽に帰るだけのことである」と答えてます。
阿弥陀の光明はどこにでも常にあるのです。つまり極楽浄土は死んだ後の何処か遠くにあるのではなく、今ここに在るのです。
本当の自分は肉体の生死を超えていて、そして不増不減で空なんです。極楽を求めてどこかへ行く事はありません。一瞬一瞬のいまここを丁寧に生きることが救いの道なのです。
町田宗風 法然を語る
http://www.arigatozen.com/interview_a08.php
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2016/07/28

ターラ菩薩

観音菩薩の涙から生まれたターラ菩薩。アジャ・リンポチェは亡命時にクンブム(青海タール寺)から持ち出した、もっとも大切な仏像を大震災にあわれた人々を救う為にと震災の地仙台に安置した。



アジャリンポチェは「私はこのターラ菩薩に今まで何度も苦しい時や困難な時を助けて頂いた。今度はこの度の大震災によって苦しんでいる被災者の方々を救って頂く為、被災地であるここ宮城にお持ちして縁のある松音寺に安置することにした」と語った。

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慈悲のはたらきを具象化し、人格化したのが観音菩薩、その観音菩薩が流し涙から生まれたのが観音菩薩の女性形であるターラ菩薩 

2011年6月6日
2007/04/05

明恵上人3 白上の峰

明恵上人は二十三歳の時に高雄の神護寺を出て、紀州の西白上の峰に草庵を建て移り住んだ。草庵跡に訪れてみるとそこはすさまじいほど風光明媚な所だった。西の海は輝いて本当に息を飲む様な美しさだ。しばらくあっけにとられて景色にみとれた。明恵上人は西白上の峰を「波の音や漁の声が聞こえてきて騒がしい。」といっているがたしかに人の声や麓の様々な音が良く聞こえてくる。しかし私には特別に騒がしいとは思わなかった。もちろん私が天才の明恵上人より瞑想が進んでいるということではなくて、ある特定の瞑想技法によっては深く内面に進み、感覚が研ぎすまされて来た時には静かな場所の方が良いことがある。明恵上人はそれで東白上に庵を移したのだと思う。

この西白上には行状記の記述通りに一本の松があって800年前の明恵上人当時の景色と変わりないことを思わせた。この海の風景を明恵上人はとても気に入っていた。後に栂尾の高山寺に移り住んでからこの海に浮かぶ島に手紙を書いている。

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「しばらくご無沙汰したが、お変わりないか。昔、磯に遊びに島に戯れたことを思い出すにつけても、涙がこぼれるほど懐かしく思っているが、お目にかかれる機会もなく打過ぎたのは、残念である。またそこにあった大きな桜の木のことも、恋しくてたまらない。手紙を書いて、様子を聞きたいのは山々だが、物いわぬ 桜のもとへ文など書いて送っては、わからず屋の世間の振舞いに似て、「物ぐるひ」と見られるやも知れず、そういうわけで今までは我慢していた。「然れども所詮は物ぐるわしく思わんひとは友達になせそかし」自分にとっては、行い澄ました人々より、そういうものこそ得がたい友と、深く信頼している。大事な友達を尊重しないのは、衆生を護る身として申しわけないことである。よって、このような文を奉る、恐々謹言。島殿へ」

明恵上人は「人間の誰よりもあなたこそが私の最高の友だ」 「あなたはすべてを具足する完全な存在だ、仏そのものだ」 などと褒めちぎり、「島殿お変わりございませんか。」で始まり「恋い慕っております。」と人に出すのと全く変わりない調子の手紙を書いて弟子に配達させている。弟子がこの手紙を誰に渡したらよろしいかと明恵上人に訪ねると、島の真ん中で「栂尾の明恵房のもとよりの文にて候」と大声を張り上げて打ち捨てて帰りたまえといったのである。 ところで手紙を内容を現代の我々も知る事ができたのは、この弟子が明恵上人の言いつけを守らず棄てずにもちかえったということになる。

華厳経の教えでは海に浮かぶ島も宇宙を表す毘廬遮那仏(びる しゃなぶつ 別名大日如来)そのものに他ならないという。華厳経の教えを実践した明恵上人にとって山川草木国土、生きとし生きるものすべてに、命が宇宙心(ユニバーサル・マインド)が宿っている事はあたりまえのことだった。そしてそれと交流できた希有な人だったのである。

華厳経は非常に難しいといわれているが「事事無礙の法界縁起」(じじむげのほっかいえんき)という言葉は華厳経をわかりやすく説明した華厳宗の言葉といわれる。どこがわかりやすいのか理解に苦しむが仏教は中国語に変換されたためにわかりやすいはずの説明自体が難解だ。文字を読めない庶民にとって華厳経はあまりにもかけ離れた世界だった事だろう。現代語訳では「すべての物事はお互いに無関係ではなくて相互に依存している。物事は因縁によって起き、お互いが溶け合ってとどこおりがない。」となる。
2007/04/03

明恵上人2 親愛と法愛 

明恵上人は十三才の時に「もうこんなに年老いてしまった。今まで生きて来れたことが不思議だ。」とこんな事を考えた。明恵上人の両親は自我が芽生える8歳の頃に無くなっている。親の死が明恵少年の自立を早めたのかもしれない。

光陰矢のごとしという。常に変化してゆく物質の娑婆世界に住んでいる我々の人生はあっという間に終わってしまう。死を目の前にして始めて人はして来なかった人生をやろうとするという。その時ではすでに遅いかもしれない。永遠の今を十全に生きたいものだ。

早熟な明恵少年は体があるから煩い・苦しみがあるのだと考え、狼か山犬に食われて死のうと思い、ただ一人死骸捨て場へ行って死骸の間に横たわった。
夜になって沢山の山犬たちが来た。山犬たちは音をたてて死骸を食べるが、明恵上人の体は臭いを嗅ぎまわるばかりで食いついてくれない。そのうちにいつの間にか山犬達は立ち去ってしまった。助かった明恵上人はのちに「恐ろしさは限りなし」とその体験を述べている。

突然の親の死は子供に罪悪感を引き起こすといわれている。唐突にきずなを絶たれた明恵上人は両親の失った溝を埋めようと最善をつくしたのだ。

また、紀州に向かう途中、癩病人を見て通り過ぎるが、後で癩病には人肉が病に利くと聞き、ひそかに刃物を研いで自分の人肉を与えようと立ち寄ってみると癩病人はすでに死んでいたという。これらの出来事によって「死ぬべき業(カルマ)がない者はどんなことをしても死ねない。」ことが明恵上人にはわかったという。

十六歳で明恵上人は東大寺で具足戒(正式な僧侶の戒)を受けた。736年に華厳経が日本に伝来して以来東大寺には華厳経の根本道場があった。この頃の明恵青年は片っ端からお経を暗記して自室に戻り書き写したというから相当な頭脳の持ち主である。

華厳宗中興の祖と呼ばれる明恵上人だが華厳経は2世紀頃からインドで編纂され中央アジア、タクラマカン砂漠のオアシスの地ホータンを経由して297年から774年までの間に漢訳されといわれる。

隋の頃(581年 - 619年)華厳経を昼夜唱えたら宦官(去勢された役人)の男性ホルモンの分泌が盛んになり髭が濃くなったと評判になり国を挙げて信仰したとされる。当時は神通力や不思議な奇蹟を求めたのである。いや昔だけではなく、奇蹟を求める人は現代でも少なくない。

華厳宗を大成させたのはサマルカンド出身の第3祖法蔵(643~712)といわれている。その法蔵の兄弟子に朝鮮の新羅から長安に留学していた義湘(ぎしょう)という僧がいた。

栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)には明恵上人が絵師に命じて作らせた華厳宗祖師絵伝というのが残っている。華厳宗の祖師といえば1~3祖までを描くべきなのに法蔵の絵は全く無く、明恵上人は古代朝鮮半島、新羅の高僧義湘と元暁(げんぎょう)の行状だけを描かせている。宋高僧伝には日本の僧は誰一人載っていないが新羅の義湘と元暁は載っている。義湘と元暁は著作も多く韓国ではあまりにも有名なのだ。明恵上人は新羅の義湘と元暁を大変尊敬していたのである。

義湘と元暁は二人一緒に唐に行き、仏教を学ぼうとする。たまたま旅の途中で雨に会い、そこにあった洞穴で野宿をした。真っ暗な中で元暁は喉が渇いたので入れ物で水を飲んだ。翌朝目をさましてみるとその入れ物は頭蓋骨だった。元暁はどくろだと思ったとたんに吐き気を催したという。どくろだと思わなければ吐き気はせず、思ったとたん吐き気がする。つまり、すべてのものは自分のこころが作ってゆく、心のほかに師を訪ねてみても意味がないと悟り、新羅に留まり義湘一人が唐に渡った。

義湘は長安で善妙という美しい娘にほれられてしまう。義湘が仏に使える身なので交際を断ると善妙は尼さんになり一緒に仏教を学ぼうとした。師匠も亡くなり帰国の命が出たので義湘は善妙に告げずに舟で新羅に帰国した。義湘の帰国を知って岩壁にいそいで駆けつけた善妙は海に身をなげ龍神と化して義湘を守護するのだった。

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平安時代末期は戦乱が相次ぎ戦で死に別れた未亡人の為に明恵上人は尼寺を建立して善妙寺と名づけた。善妙寺には明恵上人が亡くなった時、慕った尼が血書で華厳経をしたため清滝川に身を投げた話が伝わっている。

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仏教では恋愛感情は渇愛といって煩悩であり苦しみの原因をまねくものだが明恵上人は恋心を抱いた善妙を高く評価している。明恵上人によると愛には親愛と法愛があるという。

凡夫の愛は親愛が多く法愛は少ない。華厳経の悟りの境地、三賢十地の段階は親愛は少なく法愛が多くなる。十地の段階はただ法愛のみだという。善妙の愛は始め義湘の見た目の肉体を愛したがそこから菩提心の愛に昇華したというのだ。

親愛は見返りを求め憎しみを伴う。結果を求める心(マインド)の愛、に相当し 法愛は見返りや結果は求めず、ただその人の存在から溢れ出すだけで、ただ慈悲と愛、静けさや沈黙が伝わって行く精神(スピリット)の愛に相当すると思う。

「愛の心のないものに仏法はわからない。」このように語る明恵上人は親愛を単に否定するのではなくて親愛を昇華して法愛に変容する深い慈悲心の大切さを説いたのだと思う。

韓国の栄州には韓国で一番古い木造建築物がある浮石寺(プソクサ)があって、そこに善妙を奉った善妙堂がある。善妙堂には日本の栂尾高山寺が寄贈した善妙の像が飾ってあるという。

参考文献
古代の日本と韓国 韓国文化院
明恵上人 白洲 正子 講談社
明恵 夢を生きる 河合 隼雄 京都松柏社
明恵上人集 久保田 淳 山口 岩波書店
名僧列伝〈1〉明恵・道元・夢窓・一休・沢庵 紀野 一義 講談社
明恵 田中 久夫 吉川弘文館
法然対明恵?鎌倉仏教の宗教対決 町田 宗鳳 講談社
2007/04/02

明恵上人1 本覚思想

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 鎌倉時代の初期に何回かインドへ行こうとして計画をたてながら、その計画がことごとく頓挫した人がいる。栂尾(とがのお)高山寺の名僧として知られた明恵上人である。

 明恵上人のことは今から30年前、山尾三省を通して始めて知った。いつか明恵上人のゆかりの地を訪ねたいと胸に秘めてから幾星霜、近年、念願かないようやく訪れる事が出来たのである。

 明恵上人の生まれ故郷は「有田みかん」で有名な今の和歌山県の有田市だ。明恵上人の史跡は石の卒塔婆があるだけで有田には特別な建造物は何もない。生誕地の明恵上人ゆかりの屋敷跡には歴史を感じさせてくれる石の塔婆が置かれていて、そばには悠然と大木が立っている。

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その下に居ると木の葉の腕に抱かれているようでここちよい。立派な伽藍は何一つないが明恵上人のゆかりの地はすがすがしい気で満ちている。現代でも忘れ去れる事なく敬愛された明恵上人のヴァイブレーションがそこには色濃くのこっている。

 明恵上人が生まれた頃は平氏と源氏が戦いをしていた頃で父親の平重国は源氏との戦であっけなく討ち死にした。母も同じ年に他界している。明恵上人が八歳の時である。

 父は平氏だったが母方は紀州の源氏の豪族だったので、平氏が滅びたあとも地頭としてこの地を治め、明恵上人は親戚の湯浅氏を頼ってたびたび紀州に滞在した。

 四歳のころ明恵上人の父は戯れに鳥帽子を着せて見ると、姿が美麗なので侍に似合っているといった。僧になる決心をしていた幼い明恵上人はそれを聞いて顔立ちが良くて僧になれないならと焼け火箸を顔に当てようとした。ところが恐ろしくなり試しに腕を焼いた所あまりの熱さに鳴き叫んだという。

 九歳の時、叔父の上覚を頼って文覚の弟子になるのだが、文覚は明恵上人を見るなり「ただ人にあらず」と語ったとされている。この文覚という僧は京都の御所を警備する武士だったのだが友人の奥さんに手を出し、誤って殺してしまった罪を悔いて出家したのである。文覚は気が短く乱暴を働いた為に伊豆に流されてしまう。その伊豆で文覚にそそのかされて挙兵した源頼朝に明恵上人の父は打ちとれられてしまうのである。明恵上人は父を殺される因になる文覚の弟子になったのである。なんという深い因縁だろうか。しかも文覚と明恵上人の父の先祖はどちらも藤原秀郷の子孫なのである。気がつけばこのようにおそらく私たちにも網の目のような縁生がめぐらされているのだろう。

 日本には名僧がキラ星のごとく存在するが明恵上人ほど興味深い僧はいない。明恵上人は僧位、僧官を受けず、一宗一派にこだわらず自己の修行をされた高潔な僧であった。

「明恵 夢を生きる」を著作した河合隼雄は湯川秀樹と梅原猛より明恵上人の研究をするよう強く進められ伝記を読んだ所、尊敬の念が高まるばかりだったと語っている。又夢記を読み感激した河合隼雄は「自分の師と仰ぐ人を見出すことができた。」と最大級の賛辞を明恵上人に送っている。

 紀野一義は好きなお坊様はと問われて「明恵上人と道元禅師」と答えている。評価が高いわりには宗派を創立した鎌倉新仏教の祖師等にくらべると明恵上人は今ひとつ知名度が低い。

 明恵上人の評伝は非常に少ない。白州正子の昭和49年の「明恵上人」と河合隼雄著作集9の「仏教と夢」紀野一義の「明恵上人」の3冊が昔から手元にあったがどれも宗教体験についての記述には物足りなさを感じていた。その中で法然を「死の座標軸」とらえ明恵を「生の座標軸」と捕らえて対比させた 98年に出版の町田宗鳳著「法然対明恵」は切り口が斬新で大いに参考になった。

 明恵上人は密教と華厳を修め厳密の祖とも華厳宗中興の祖と呼ばれているが真言密教に対しては興味がなかったようだ。たぶん少しサンスクリット語を勉強しただけで中味がなくとも真言師とされる風潮に嫌気がさしたのだと思う。平安時代から続いて来た最澄と空海が開いた仏教は僧侶が権力にあぐらをかき民衆から搾取を続けてこの頃になるとすっかり腐敗してしまったのである。

 中世に発展した思想に本覚思想というのがある。本覚という言葉は「大乗起信論」から来ている。人は生まれながら仏性を持っているのが本覚。迷いの状態を不覚という。仏性は持っているのだが煩悩に覆われている不覚から次第に煩悩を取り除いて悟りに到達する事を始覚と言う。

 これは昔から論争の種だったが本覚はいつのまにか現実に悟りを開いているということになってしまった。ありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別にもとめる悟りはないという考えである。悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを開くことは非常に低次元のことで始覚門とよばれた。

 「草木国土悉皆成仏」という言葉がある。草や木も鳥や獣、虫に至るまで山や河、大自然すべて仏でないものはないということだ。この世に不要なことはなくすべてに意味がありまことに素晴らしい。

 しかし、すでに悟っているので修行は不要となると、向上心は薄れ、安易な現状肯定になってしまい危険な思想となる。このころの時代は僧兵が幅を利かせ武力による権力闘争を繰り返していた。

 かれらのいいぶんはこうだ。
「もともと罪などというものはない、罪があると思うのは妄想である。自分の心はもともと清いので仏である。」と僧侶はうそぶいて欲望のままに狼藉の数々を働いたのだ。

 中世のカトリックのように平安時代の寺院は荘園領主として農民を支配した。迷信深い中世の農民は地獄に行くことを真剣に恐れた。戦乱や飢饉や疫病が頻発する中で年貢米や強制労働で苦しめたのだ。

 現代でも中世の化石のような坊さんがいそうである。葬式のお布施が少ないと「こんなに少ないお布施では罰があたる。これでは良い戒名を付けられない。もっとお布施を沢山出さないと極楽へ行けませんよ。仏様がかわいそうだ。」実はこれと似た様な宗教家の話は耳にしたことがある。

 本覚思想が発展するのに先立っては密教の即身成仏と禅の頓悟があった。悟りを得るのは難しく限られた特別の人だけだとすれば、悟りを開いていない衆生つまり我々一般ピープルは修行を続けても、いつになったら悟りが開けるか判らないので不安になる。その点、もともと誰でも仏性が内在しているのであればそれを表に出せばよいので探求者の励みになる。それが中国から日本に伝わる間にいつのまにか仏性が全面に出て来て、すでに悟っているのだから修行は不要の本覚になってしまったのである。

 当然、極端に展開した本覚思想は批判されることになる。言葉による教えの危険性がここにある。月を示す指は方便であって月ではない。悟っている人にとって真実でも、探求者にとっては「あなたは悟っている。」は方便でしかない。それは薬のようなものだ。適切に使用すれば病が癒されるが使用を誤ると毒と化す。

 明恵上人は「あるべきようは」と人々に説き、自らは厳しく戒律を守り、修行によって悟りに至る始覚門の立場を明らかにした。

参考文献
明恵上人 白洲 正子 講談社
明恵 夢を生きる 河合 隼雄 京都松柏社
明恵上人集 久保田 淳 山口 岩波書店
名僧列伝〈1〉明恵・道元・夢窓・一休・沢庵 紀野 一義 講談社
明恵 田中 久夫 吉川弘文館
法然対明恵?鎌倉仏教の宗教対決 町田 宗鳳 講談社