2017/07/10

惑星意識の誕生

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循環が途切れた経済システムは破綻します。冨の偏った配分や硬直化した文化、市民の公平な権利を守らない役人、警察官、裁判官、マスコミ。環境よりも自分たちの既得権益を擁護する人々が権力を握っている社会、腐敗した政治の社会は持続不可能です。

中世で一番大きな建物はキリスト教会、宗教の建物でした。17世紀の建物は政治の建造物が一番大きく、20世紀は経済活動の建物が大きくお金が神でした。

21世紀になると経済の象徴だった世界貿易センタービルが崩壊しました。そしてチェルノブイリ原発の事故が起きました。

国土が放射能に汚染されたウクライナは急激な人口減少に直面しました。1951年以来一度も人口減少を見せたことのないウクライナの人口は事故後約20年の間に12.1%も失われたのです。http://bit.ly/AgqdCb  日本では福島の原発事故が起きました。福島原発事故のセシウムの量はチェルノブイリの4倍です。

いまだに原発事故の実感がわかない人がまだ大勢います。理性中心の科学合理的な思考をするようになって左脳優位になり、全体との繋がりが見えなくなってしまったのです。

資源を食いつぶす旧体制はシステムのゆらぎが臨界値を超えたのでもはや消え去る運命にあります。経済やお金の時代はすでに終わりをつげたのです。歴史はすでに次の時代へ向かっています。

古い自我を超えようとする時には分離していた影との境界で激しい葛藤が起きてきます。ほとんどの人は自分の触れたくない感情がでてくることには抵抗があります。その新たな展開に恐れをいだき自分自身との直面をさけ古い自我にしがみつき現状維持をはかろうとします。

精神的混乱が続くと自我は病的退行の段階に至ります。現実と非現実の境界がゆらぎ、不安定になります。自身の暗黒面を直面できないため一体何が起きているのか把握できず強い不安と恐怖にさらされます。無意識から沸き上がる否定的なエネルギーに巻き込まれて混乱したまま自己を喪失して退行してしまいます。

これが社会の集合無意識で起こるでしょう。私たちの社会が新しい社会に移行するには退行か成長の二つの道があります。

一つは環境が悪化し崩壊に向かっているにもかかわらず、権力を握っている体制側が新たな展開に恐れをいだき既得権益を守りがたいためにあらゆる手はずを使って現状維持をはかろうとします。

人々は偽りの価値にしがみつき、体制を変えようとはせず情報操作された社会の中で夢想と忘却の日々をいたずらに過ごします。

システムのゆらぎが臨界値を超えると、予期せぬ変化が急激に起きるのが崩壊のプロセスです。硬直した保守体制はやってきた環境悪化に対応できず社会秩序は崩壊に向かいます。憎しみや復讐の感情が制御不能な暴力となって対立が世界中に吹き荒れます。人々は堪え難いストレスに苛まれます。

もう一つは、ゆらぎが個人の内面に起きて意識のマトリックスの転換が進み、自分の思考を自覚することができる観照の眼を持った人々が増え続けて、加速がつきます。ついに社会を変えることができる人数の臨界値を超えてしまいます。環境保護や他者との相互信頼を大切にする企業や政治家が支持され対策が講じられるようになります。

大勢の人々が真の宗教性をもつようになって組織宗教はみな力を失い宗教の対立は消滅していきます。

人々は自分の内部にある心理的葛藤を外部に向かって行動表現しなくなり、相互に信頼を築き、尊敬しあう関係が生まれます。無意識の領域の自覚が進み命のネットワークが実感され人種民族の違いに寛容になります。物質的価値よりも人や自然との関係性や心の充実が価値を持つようになります。

やがて国家は必要がなくなり、軍隊は武器をスコップに替え災害救助隊に変容します。富の再配分がおこなわれて、余った軍事予算のすべては貧困、農業、循環する自然再生エネルギーの開発費にまわされます。社会が成熟すれば法律、政府、裁判所、警察、軍隊は必要がなくなり、国境線は消えます。

地球は持続可能な状態に落ち着きます。

動物なのか植物なのかわからない粘菌という生物はエサがなくなると四方から一つの中心に向かって集合体を作ります。

危機状況のアメーバの行動
https://www.youtube.com/watch?v=Ze3NjbE7kQI&feature=share・・・

不思議なことに一つ一つが独立した粘菌の集合体は情報を伝達する神経を持たなくとも一つの個体生物のような統率された行動を示します。

移動を止めると粘菌は尾の部分が茎状になって垂直に伸びて死に、頭の部分は胞子となって空中に飛び散ります。そして胞子はあらたな繁殖地でふたたびアメーバ状となり生きて行くのです。

この粘菌のように破綻に直面すると生命は環境に適応しながら自己増殖をして生命を維持しようとしていきます。

今までの市民運動の中には個人の意識の内面にある強い緊張や抑圧に無自覚で気がつかずに正義を振りかざしたために、抑圧されたエネルギーに飲み込まれて言動や行動が攻撃的、暴力的な運動になって吹き出すことがありました。
それが深刻な対立をうみ、分裂し、さらなる摩擦を起こし欲求不満、ストレスにさらされて怒りの感情を他者に投影して行動してしまいました。そのために過去の市民運動に違和感を持った人々も多かったのです。

社会運動に熱心な人は内面の問題に無自覚だったり、心の問題に熱心な人は社会運動にあまり関心を示しませんでした。

これからオーガニックな食を好み自然素材の服を好み、髪型も自由で音楽を歌い踊り、瞑想しハートを開いた人々が行動して議会に現れるでしょう。既存の価値観から決別した、これまでの政治家とは根本的に異なる人々が登場してくるのです。

優れたリーダーが現れても社会を構成している人々の意識が変わらない限り社会の根本的な変革はありえません。既得権益を握って権力を持っている保守勢力につぶされてしまうからです。

中国にはかつて民主的といわれた胡耀邦が総書記に就任したことがあります。彼は中国のチベット政策の失敗を正式に表明して謝罪しました。しかし長老・保守グループはそれに強く反撥して胡耀邦は総書記の座から引き摺り下ろされてしまいました。民主的な考えの人物が中国の主導部で多数派であったならばとっくの昔に中国は民主化されていたでしょう。もし、大多数の民衆が覚醒したならば逆に愚かな指導者は力を失い姿を消してしまうのです。

個人の意識の成熟が鍵なのです。そして社会にゆらぎが起きている時はそれが全体に波及していくでしょう。

一人の人物の中で目覚めの炎が燃え上がったとき、突然その火の粉が飛んで他の人にも点火します。そしてそれが次々と点火して、たちまちあたり一面に炎がもえさかります。そして、全体がおびただしい光であふれかえります。

それが地球規模でおきて、経済の幻想、宗教の対立、民族の争い、国境は消えます。この地球に新たな惑星意識が誕生します。その青写真はすでに誰もが持っています。
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2016/10/12

無責任体制に陥る日本

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東京都の豊洲問題が連日話題になっています。しかし、誰の責任なのか全く見えてきません。日本社会は中央に権威は置いても権力は置かない構造になっているのでしばしば無責任体制に陥ることがあるのです。原発事故も豊洲問題も個人が表に出てきません。

戦争中の日米の組織を比較するとアメリカは状況が最優先で、組織でも何でも、状況に応じて一人ひとりに絶大な権限が集まるようにつくっていきます。
日本の組織は責任分散型で一人だけに大きな権力が集中するのを避けて、何人かのトップが談合で決めるというやり方をしました。明治憲法で軍隊は天皇に属するとされましたが天皇がトップとなって実際に軍隊を動かすことはありませんでした。

日清、日露などの戦争の時の日本の軍隊は陸軍と海軍の参謀総長、軍令部総長、参謀次長、軍令部次長、第一部長、作戦部長、作戦課長によって構成された大本営会議が統帥権を持ち全面的に作戦を仕切って戦争がすすめられていました。統帥権とは最高指揮権のことですが日本は個人が権力を持たない構造になっていました。
個人が責任をとらない無責任社会は、ある特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになります。

政治学者の丸山真男は無限責任の例として1923年に起きた難波大助に狙撃された裕仁皇親王(昭和天皇)暗殺未遂事件を取り上げています。この皇太子暗殺未遂事件後、総理大臣の山本権兵衛は辞任、内閣は総辞職、警視総監と警視庁警務部長が懲戒免職、警護のかかわっていた一般の警察官まで免職。犯人の出身地の山口県知事と、犯人が上京の途中で立ち寄った京都府の知事も譴責処分、郷里の村は正月の行事を中止、犯人のでた小学校の校長と担任は辞職、衆議院議員であった犯人の父は蟄居し半年後に餓死しました。

無限責任は最近でも現役の野球部員のたった1人の違法行為の責任として野球部全体が甲子園出場辞退という習慣に引き継がれています。

日本は父性が強くなっても心理的に母性優位の国でした。個性や自己主張よりも全体との調和や平衡状態の維持の方が重要なのです。

太平洋戦争末期、戦果を挙げることに固守した日本軍は敗北が決定してもずるずると戦争を長引かせて無謀な戦闘を続けました。無責任体制 の日本は一旦始めた戦争を終わらせるリーダーがいなかったのです。結局、多くの国民の命が犠牲となって失われました。

頂点の地位にいる天皇は、象徴的な権威だけで実質的な権力を持っていませんでした。
そして行政を担当する官僚は、短期間で交代してしまいます。永続的にその業務に対して責任を持つ個人が存在しません。
つまり、日本は命令を下す決定権を持っている個人も責任をとる個人もいないのです。

こうして日本は責任をとる個人が存在しないまま、集団による、責任の不明確な傾向に従って行動して失敗します。
そうして、失敗をしても、その失敗の原因を究明して責任者を明らかにしないので、同様のパターンを何度も繰り返すのです。
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