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2018/05/20

猫渕神社と瀬織津姫



住田町に猫を祀る神社「猫渕神社」あります。ところがこの神社はハードルが高く場所がどこにあるのかわかりません。住田町史に出てくるということにも関わらず住田町の観光課に電話しても誰も知らないと言うのです。
合地沢(がっちざわ)という事だけはわかっていたのでとにかく現地を訪れて、通りかかった軽トラの地元の方に案内されてようやく参拝する事ができました。
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どうしてこの地区に猫の神社があるのかというと、住田町は昔一大養蚕地帯だったことがあり、猫は蚕を食べ荒らす鼠から蚕を守る養蚕守護神とされ猫渕神社で養蚕の無事と豊蚕が祈られたのです。
猫渕神社の別当は合地沢地区を開いた菊池家で肥後菊池氏の分流とされています。
菊池氏の氏神は熊野十二所大権現であり、熊野の那智大権現は瀬織津姫でもありました。

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那智の滝神を祀る四十八滝が住田町にもあり四十八滝神社の祭神は瀬織津姫となっています。
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九州の菊池氏は全国に四散しました熊本菊池氏よりも岩手県は菊池氏の数が多く全国トップです。早池峰大神である瀬織津比咩を祀ったのも菊池氏だったようです。
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四十八滝もハードルが高く、橋のたもとに四十八滝の看板があるだけであとは看板がありません。途中の林道はすれ違い不可能な落石が多いかなりの悪路です。
車を降りて歩いていくと瀬織津姫を祀る「四十八滝神社」と素晴らしい「願掛けの滝」がありました。
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2018/05/20

アラハバキ神



先日、仙台と住田町の荒脛巾神社を相次いで参拝してきました。
「アラハバキ神」は文献にほとんど出てこない謎の神と言われています。
アラハバキ神は皇祖神とは異なる神で『古事記』や『日本書紀』が編纂される前の日本列島に先住していた人々が信仰していた神なのです。
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奥州を支配していた安倍氏は神武天皇が東征して奈良で戦った登美の長脛彦の兄安日彦をその始祖しています。その安倍氏はアラハバキ神を氏神としていました。
『陸奥抄史』に住田町と遠野の界にある貞任山に荒覇吐神社があったことが記されています。住田町にアラハバキ神社が今もあります。

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アラハバキ神を祀る神社の多くに磐座があり、おそらく古代では岩の上で巫女が祭祀をおこなっていたと思います。
沖ノ島最古の岩上祭祀の時代に鉄製品が祭祀品として使われていました。鉄が入ってくると縄文の人々はその輝きに神の神聖さを感じたと思います。
鉄の塊をアラハバキ神の御神体としている神社も多いのです。

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宮城県多賀城市のアラハバキ神社(荒脛巾神社)の隣では鍛冶・製鉄の神天目一箇神を祀っていました。
『古語拾遺』によれば、岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造ったのが天目一箇神で筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としています。『古事記』に製鉄を行った鍛冶の神として天津麻羅(あまつまら)が出て来ますが、神や命がもちいられずに呼び捨てにされています。天津麻羅(あまつまら)は天目一神(あめのまひとつのかみ)と同神とされています。

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天津麻良はニギハヤヒが天磐船に乗って降下する時、供奉した五部人の中の一人であり、物部系氏族の祖神となっています。
天之久之比命(あめのくしひ)の別名は天目一神で大物主と三穂津姫の夫婦神を祀る村屋坐彌冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)の末社久須須美神社(若宮恵比須神社)に祀られています。また、天之久之比命(あめのくしひ)は天目一箇神(あめのまひとつのみこと)の別名天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀る多度神社の末社鉾立社(ほこたてしゃ)の祭神として祀られています。

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「海部氏勘注系図」によると天目一箇神は滋賀県野洲の御上山の祭神で海部氏(アマべ)の祖先に当たります。
『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条には天目一箇神が女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)と天目一神との間の子と記されています。
道主日女命(みちぬしひめのみこと)は「海部氏勘注系図」で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻とされています。
伊勢神宮の荒祭宮は伊勢の地主神でアラハバキ神の姫神を祀っていると言われています。別な文献では伊勢神宮の荒祭宮は瀬織津姫です。ニギハヤヒと瀬織津姫は物部氏の祖神です。

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荒覇吐の「荒(アラ)」は、山伏やタタラでは「鉄」を意味し、蛇はハハ、ハバとも呼ぶのでアラハバキ神は鉄の蛇ということになります。
整理すると、アラハバキ神は神武以前の蛇を象徴とする大物主=ニギハヤヒを祖先とする製鉄の技術を持っていた物部氏と関係が深い神だということがわかります。神武天皇はたたら製鉄のタタラの名前を持っている大物主の娘と結婚しています。
アラハバキ神とは蛇を信仰していた縄文の人々と大陸から製鉄技術をもっていた人々と混血した神なのです。製鉄技術を持っていた物部氏と縄文の末裔が混血したのが蝦夷で、その末裔がアラハバキ神を氏神とした安倍氏です。アラハバキ神を祀る神社は出雲から青森まで広範囲に渡っています。
2018/05/08

「舞と踊り 」1 男性の祭司へ




古代において、女性は神聖な存在でした。
大和朝廷樹立以前の古代の女性は神の声を聞き、託宣を行なう女性リーダーでした。
神事芸能の祖はアメ(アマ)ノウズメ(天宇受賣命、天鈿女命)と言われています。アメノウズメが天の窟戸の前 での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らし、鉾で槽を衝いて神懸りする所作は、 宮中祭祀の「鎮魂祭」で「猿女君(さるめのきみ)」に受け継がれました。
神楽では大地を踏む所作を反閇(へんばい)と言います。反閇は《翁》《三番叟》《道成寺》などの猿楽、相撲の四股、歌舞伎の六方に見られます。
反閇は邪気や悪霊を祓って土地を清める呪法という説明が一般的ですが、巫女は舞を舞うことでシャーマン意識状態に入り、そして、神がかりした時の跳躍が反閇となったのです。
閉じていた下のチャクラが解放されたときの状態が反閇になったのです。
旋回しながら舞をしていると大地から螺旋状にエネルギーが上昇して来ます。
そのエネルギーは恐怖を伴うことがありますが、恐れずに虚空に明け渡しをすることで、人は自我を超えた神となるのです。
「舞の心構えとは、物に拘泥せず、人の目を気にせず、心のうちにいっさいの思いが浮かんでこない無心無想の状態にあって謡と舞、体と心とがひとつに集中されたまま、楽の音にのせて舞うのである」金春禅竹
鎮魂法で旋回運動を「まい」といい、跳躍運動が「をどり」で、その神事を「遊び」と言いました。
遊部 ( アソビベ )という鎮魂の神事を司る役職は女性の比自岐和気 ( ヒジキワケ )が代々受け持っていましたが、のちに、神事の役職は女性にはふさわしくないとされて、その家系の女性を娶った男性の円目王(つぶらめおう)が行なうようになりました。
婚姻が母系から父系に変わり祭司長が女性から男性に変わったのです。

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律令制が輸入されると巫女は正式の官職ではなくなり、宮廷神祇官の男性神職の下にされてしまいました。
天の窟戸の前での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らした故事は鎮魂祭の「宇気槽(うけふね)の儀」として七世紀の天武朝で儀式化され、十世紀の平安中期に編纂された『延喜式』では神職の数や行事作法が細かく制定されて形式的になり、十五世紀半ばには宮廷の鎮魂祭儀は完全に廃れてしまいました。
女性シャーマンから男性の祭司へ、アメノウズメから猿女君へと引き継がれた神事芸能が女面をつけた男性による舞手になり、社寺や霊場、祭場などへ女人が禁制となって修行が男性主体となった事は女性原理から男性原理が優位になったことを意味しています。
2018/04/10

神事芸能の始まり



沖縄本島東方海上の久高島では、12年に一度、島の三十歳以上の既婚女性が巫女になるイザイホーとよぶ儀礼を行なっていました。

女性たちは円陣を組んで、両手を前に合わせたりおろしたりしながら、神さまに捧げる神歌を歌いながら旋回の踊りを繰り返して巫女になりました。

歌い踊る、神事のすべてを「遊び」といっています。神霊を身体に依り憑かせることを「遊び」といったのです。

それはタマとむすんで神霊と一体となる魂振りという呪術的行為のことでした。

久高島の最後の神女(かみおんな)と呼ばれた内間カナさんは次のように証言しています。

「昔はさぁ、私の頭の上に神さまが降りてきてくださったものですよ。男の人の相談の時には男の神さまが、女の人の相談には女の神さまが来ていろいろ教えてくれたのさぁ。でも今はもう誰も頭の上にいない。だから私は赤ちゃんのようになってしまっているのさぁ」

古い巫女舞の所作は旋回運動をします。巫女が旋回しながらシャーマン意識状態に入って先祖の大地母神や大祖母の霊であるタマとむすぶことが芸能の始まりでした。

それらは神事芸能として歩き巫女としての遊女や傀儡、白拍子となりました。

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「阿知女作法(あちめさほう)」という海の底深くにいる阿曇磯良(あづみのいそら)の神に呼びかける宮廷に古くから伝わる御神楽(みかぐら)の歌があります。

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)お~けー(一度)の呪文を挟んで次のように最初に歌われます。
「あめつちに きゆらかすは さゆらかす かみわかも かみこそは きねきこう きゆらならは」

最後の方に
「みたまみに いまししかみは いまそきませる たまはこもちてさりくるみたま たまかへしすなや」
と九つ歌われ呪文が繰り返されて終わります。

阿曇磯良(あづみのいそら)は志賀の皇神(すめがみ)として博多湾の志賀海神社の御神幸祭で磯良(いそら)の舞が奉納されています。


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阿曇(安曇)氏は神武天皇の母の玉依姫を先祖としていました。阿曇は阿知女(あちめ)であり皇神(すめがみ)でした。女神だったのです。

志賀海神社には神楽の舞におびき寄せられた阿曇磯良(あづみのいそら)が海底の竜宮城から現れて潮の干満を操る霊力を持つ秘宝の珠を献上して神功皇后は新羅を討つことに成功したという伝承が伝わっています。

阿曇(安曇)氏は磐井の乱のあと北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に四散しました。

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志賀海神社の磯良(いそら)の舞は傀儡舞として宇佐八幡宮の神事芸能として八幡信仰と共に全国に広がっていきました。それが春日若宮のおん祭や、祇園御霊会で演じられ、宮中にも取り入れられて、神楽の元祖となったと言われています。

磯良(いそら)神は傀儡・遊女が祀る百太夫・白太夫の神として西日本各地の神社の末社として祀られています。それは八幡神に服属して生き延びた海人族の隼人の姿でもありました。

鎌倉時代までの傀儡・白拍子・遊女の社会的地位は低くなく課役・交通税を免除されて諸国を遍歴し、芸能を通じて聖なる神々に奉仕する祭祀集団でした。戦乱が起きた南北朝以降女性の地位は低下していったのです。

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志賀海神社
所在地:〒811-0323 福岡県福岡市東区志賀島877
2018/04/10

神事芸能集団傀儡

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以前に神戸女子大学名誉教授の鈴鹿千代乃先生から昭和初期まで筑紫(九州の北半分)を本拠地とした芸能集団「くぐつ」の一大ネットワークがあったことをお聞きしたことがあり、大変驚いたことがあります。

傀儡(クグツ)族が残したといわれる筑紫舞は跳躍や旋回の多いのが特徴です。日本舞踊にはない「ルソン足」「鳥飛び」「波足」「水けり」「砂けり」など海辺にまつわる海女族の伝承を思わせる名のついた足使いがありました。

昭和十一年の秋、舞人が十三人集まり古代の石室で一人の少女の前で不思議な舞を舞いました。それは昭和に入り「くぐつ」の芸の伝承者が少なくなってしまった筑紫舞の奥儀を伝える最後のイニシエーションでした。その石室は先日訪れた宮地嶽古墳(みやじだけこふん)でした。

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不幸な悲劇的な生涯を送った皇子や皇女の物語を伝える「語り舞」というのがあります。

「男女の恋でも、成就した話は、舞って語り伝える必要はない。それは単なる色恋にすぎない。結ばれなかった恋を舞って、死後は離れ離れにしないで下さいと神に祈る、舞って語ることによって後世の人々に『ああ、こういう恋もあったのか』と思ってもらうことが、その人々をおなぐさめすることになる。」菊邑検校(筑紫舞伝承者)

「語り舞」は魂をなぐさめる「鎮魂」の舞でもありました。

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筑紫舞が伝える七福神は世にいう福の神とは全く異なる不幸を背負わされた神でした。 

傀儡が伝える七福神は皆、人々の苦しみを背負わされて不完全な不具の姿をした神でした。

鈴鹿先生は次のように述べています。『不完全なるものに神性を見る思想は世界的にある。日本にも、近世までは、不具の子が生まれると、その子は、家を栄えさせる“福子”として皆で大切に守り育てた。
神から授かった子、神から選ばれた子として共同体がその子を大切にすることで、その共同体に福がもたらされる。芸能を演ずることで、共同体の罪、穢れを自ら背負い、さすらいという生活を余儀なくされた彼等の生み出した神々の姿であった。 
こうした伝承は、傀儡子が独自の神話体系を確立していたことを語っている。』

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筑紫舞は二百数十曲伝えられていますが、舞の種類は大きく神舞(かんまい)・巫女舞(きねまい)といった神に捧げる神舞と、 くぐつ舞という祭礼の時に人々に見せる舞とに分けられます。くぐつ舞は全ての所作が「祓え」としての意味を持ち、体を極限まで駆使して舞うことによって全身で人々の穢れを引き受けました。

そして、その穢れは人知れずに舞う神舞(かんまい)で神様にお渡して祓ったのです。

筑紫舞は日本神道の神事である禊祓いを行う真性の神事芸能だったのです。

踊りは身体言語ともいうべき非言語コミュニケーションの手段です。舞は言葉によって伝えられない情報を伝えることができました。巫女舞や神楽や傀儡舞は自然と一つになって平和に暮らしていた神話時代の神々の姿を今に伝えるものなのです。

神事芸能研究会
http://shinji-geinoh.sakura.ne.jp/acces.html

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