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2018/06/01

母系から父系社会へ

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母系の縄文時代は嫁入りがありませんでした。結婚を強制される事も別れさせられる事もなかったのです。戸籍もなければ結婚制度も存在していませんでした。母から娘へ家と土地、財産が受け継がれ子供は母親の家族と一緒に暮らしていました。

財産分与の問題も嫁舅の人間関係のわずらしさもありませんでした。男性は自分の生まれた家で生活していたので、自分の子供を養育する事はありませんでした。父親という概念さえもなかったのです。

男女の関係は好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた本人同士の純粋な自由恋愛でした。

奈良・平安中期の時代までの子どもは母方の家で育てられる妻問婚が行われていました。

男は遠い夜道を通って女性の家に通い一番鶏がなく前に生まれた家に帰ってゆく通い婚でした。

気持ちが離れれば男は通わなくなり、女も気持ちがさめると男を家に入れませんでした。

男女間に経済の結びつきはなく、生活は別々でした。子供に父親という概念が希薄で時々母のところに姿を見せる男でしかなかったのです。

毎日顔をあわせる母方の祖父や母親の兄弟である叔父さんとの関係性の方が父親よりはるかに深かったのです。これが天皇の外戚一族が政治権力を握った背景でした。

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平安時代の中頃から男性が女性の元へ通う妻問婚から婿が住み込みで妻の家に同居する婿取婚へ変化していきます。妻の父が婚姻決定権をもつようになりました。

武家社会の到来によって惣領制という家族制度が起こってきました。

母系と父系が混在するようになると女性の財産の帰属について問題が生じるようになりました。鎌倉末期ごろから正式な婚姻関係の正妻から生まれた嫡出(ちゃくしゅつ)の長男にのみ全財産を相続させるようになり女性は相続から除かれました。

鎌倉から室町時代は婿取婚から嫁取婚に変わる過度期にあたります。

嫁という漢字の正式の読みは「ケ」「カ」で、元々の漢字の嫁の意味は「ゆく」、「売る」「なすりつける」です。

嫁を取る婚姻の形態の始まりは略奪、召し上げ、進上でした。

応仁の乱以降、相次ぐ戦乱により社会の秩序は乱れて殺伐となり、女性を路上で奪う乱暴なことが天下御免のこととして頻繁に行われるようになりました。女捕り、辻取り、拐かし(かどわかし)などと呼ばれていました。

武家たちは立場が下の下級武士や力の弱い武家に対して略奪、召上、進上等の嫁取り婚を要求したのです。

地域集団が父系の原理に基づいている社会では嫁に来た女性は「よそ者」でした。自分の生家の親兄弟や親戚との結びつきの方が強く、他の親族集団への帰属意識が弱いので、嫁は子供ができるまでは、夫の氏族の一員とみなされませんでした。

儒教的な観念が支配的になると女性は男子を産むことが最優先であり子孫を残さないことは不幸の最も最たるものでした。その為に女性は子供を産む道具にしか過ぎず、子供を産めない妻は離縁されました。

妻に対する貞操観念が強くなり、夫方の家に縛られるようになりました。結婚の決定権は家に握られ、自由恋愛は礼節にふさわしくありませんでした。

室町時代以降は長男相続が一般的慣行となり、女子の財産権は消失しました。女性の社会的地位は急速に衰退していきました。そして女性は穢れているとして聖なる場所への女性の立ち入りを禁止する女人禁制が現れたのです。
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2018/05/08

女性の財産権 「結婚について その5」




地域集団が父系の原理に基づいている社会では嫁に来た女性は「よそ者」でした。自分の生家の親兄弟や親戚との結びつきの方が強く、他の親族集団への帰属意識が弱いので、嫁は子供ができるまでは、夫の氏族の一員とみなされませんでした。
平安末から鎌倉初頭は荘園を支配する女性の領主や風早禅尼深妙という女地頭もいました。財産の相続権や所領の知行権が妻にも与えられていたので、夫の死亡後に家督財産をうけついだ女御家人もいました。
母系と父系が混在するようになると女性の財産の帰属について問題が生じるようになりました。女子に所領を与えてのち、婿家の夫が敵になることもありました。
女子は武人としての奉公ができないので、元寇の頃から西国の御家人に対して女子への財産譲与を禁止する法令が出されています。
妻の不貞は厳罰に処せられ、夫の死後においても貞操を要求し、再婚するのは貞操心を忘れた不届きのことだから、その時は亡夫から譲得の所領を亡夫の子息に返すべきだと定められています。そして、妻にのみ貞操を要求しながら夫は妾を盛んに囲っていました。
公家たちは婿取婚を保っていましたが、鎌倉から室町時代は婿取婚から嫁取婚に変わる過度期にあたり、武家たちは部下や弱隣の武家に対して略奪、召上、進上等の嫁取り婚を要求していました。

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応仁の乱以降、相次ぐ戦乱により社会の秩序は乱れて殺伐となり、女性を路上で奪う乱暴なことが天下御免のこととして頻繁に行われるようになりました。女捕り、辻取り、拐かし(かどわかし)などと呼ばれていました。
鎌倉末期ごろから正式な婚姻関係から生まれた嫡出(ちゃくしゅつ)にのみ全財産を相続させる方法が現れ室町時代以降には一子相続が一般的慣行となり、女子の財産権消失と同時に女人禁制が現れ女性の社会的地位は急速に衰退していったのです。
2018/05/08

家に縛り付けられる女性 「結婚について その4」




縄文時代の男女間は好きな時に一緒になり、嫌になれば離れるのが自由でした。
中央集権が進み律令体制が整えられたのが八世紀です。儒教の影響下にあった中国の制度をそのまま取り入れたのです。人口の増加をはかるために早婚を奨励した年齢がそのまま日本に持ちこまれ、結婚年齢は男子15歳、女子13歳でした。
妻は家に縛り付けられ妻の財産も含めて全ての財産は夫の所有となりました。結婚は家父長が絶対の権限を持ち許可のない自由な結婚は認められませんでした。離婚の請求権は妻になく、女子を産んでも男子を埋めない女性は石女と軽蔑され離婚の対象となりました。

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宮中に住み天皇の寝所にはべる婦人を女御(にょうご)と言いました。女御(にょうご)は名門の貴族から選ばれました。
しかし、歳若いうちから自分から望んだわけではなく父の命令によって天皇の女御(にょうご)なった女性は短命でした。天皇の周りには他の名門貴族から政略により送られた、たくさんの女性がいて、表に出すことの無い、怒り、悲しみ、嫉妬、不満、憎悪が渦巻いていました。
醍醐天皇の女御(にょうご)から白河天皇までの100年くらいの間の女御(にょうご)は15歳から27歳くらいで早死にしています。
藤原道長の六女東宮女御嬉子は18歳で後冷泉天皇を産みますが難産の後2日後に亡くなりました。あらゆる咒、祈祷、真言宗の最高の儀式とされている宮中御修法も読経も甲斐なく息を引き取ったと言います。狂った『もののけ』に取り憑かれて死んだことになっています。
鉛の入った化粧と厚着をして室内の中ばかりいてたいした運動もせず、楽しむことがない生活は精神的にも肉体的にも健康に良いわけがありません。
年若くして結婚、出産に伴う病気で亡くなる女御は多かったようです。
ただ庶民の世界では妻問いが平安時代まで行われていました。
2018/05/08

母系から父系へ 「結婚について 3」

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律令制が確立してからの系譜は全て男系で統一されています。
大化の改新の時の右大臣の名前は蘇我倉山田石川麻呂といいます。蘇我は父系の苗字で麻呂が名前です。倉と山田と石川のいずれかは母方の性と見られています。
実際には奈良・平安時代の子どもは母方の家で育てられる妻問婚が行われていました。
昭和30年代まで妻問婚の名残が行われていたという報告もあります。飛騨高山の伝統的民家には夜に訪れる男性の為の屋根裏部屋への出入り口があるそうです。
平安時代の中頃から男性が女性の元へ通う妻問婚から婿が住み込みで妻の家に同居する婿取婚へ変化していきます。
優秀な男手が欲しい母系の家では夜に通ってきた男の現場を3日目に取り押さえて無理やり餅を食べさせる三日餅という儀式を行いました。女性の家族の一員となる儀式が済むと男性は夜に通う事をやめて公然と出入りして住み着つきました。
これによって男女の関係は自由恋愛ではなくなり、母方の家の父親の意向が強くなり、親の権限による結婚が行われるようになったのです。
婿が妻の家に住む様になると婿の生活費は全て母方の実家が持ち、父方の実家の扶養義務は10世紀頃までありませんでした。
子供は父方の姓を名乗っても母系家族によって養育されました。この時代の結婚とは基本的に婿入りであり、息子はいずれ他家に住み込むものなので家は娘に譲られるのが普通でした。
武家社会の到来によって惣領制という家族制度が起こってきました。その家の正妻が産んだ長男が財産を一人で相続するようになったのです。
妻に対する貞操観念が強くなり、夫方の家に縛られるようになりました。
儒教的な観念において結婚は男子を産むことが最優先であり子孫を残さないことは不幸の最も最たるものでした。その為に女性は子供を産む道具にしか過ぎず、子供を産めない妻は離縁されました。
結婚の決定権は家に握られ、自由恋愛は礼節にふさわしくありませんでした。
武士の時代が終わると明治政府は家父長制を法律で定めました。
「結婚する前は父親に従うべき、結婚したら夫に従うべきで、夫がなくなったら息子に従うべき」と女性は一方的な服従を求められました。
長男が絶対的な権威を持ち、家族に対する統率と財産の管理をして女性は男性に恭順・服従するように強要されるようになったのです。
2018/05/08

通い婚から婿取り婚へ 結婚について その2



蘇我氏と藤原氏は天皇の外戚になる事で権力を握っていました。自分の娘を天皇の後宮に入れて、いかに早く自分の娘が皇太子を産むかが権力の座につく条件でした。

藤原道長は自分の娘を次々と後宮に入れて、長女は一条天皇の中宮(天皇の妻)、次女は三条天皇の中宮、三女が後一条天皇の中宮になる事で最高権力者となりました。

六女は後朱雀天皇の東宮妃になっていますので藤原道長は四人の娘全てを天皇家の妃にしたのです。

その当時の婚姻は通い婚と呼ばれていて母系社会の影響を受けていました。

母親から生まれた子供は母親の家で育てられました。天皇家も同様でした。

藤原道長の父藤原兼家(929年〜990年)の周りには6人の身分の高い貴族の娘がいました。しかし、どの女性とも一緒に生活はしていませんでした。兼家は自分の生まれた家で暮らしていたのです。

しかし、息子の時代になると藤原道長は左大臣・源雅信の娘がいる土御門邸に住み着いています。 

藤原道長の義父の源雅信も、土御門中納言藤原朝忠の娘と一緒になり土御門邸を譲り受けて住みついていたのです。

平安の中期になると通い婚から婿取り婚になっていきました。

母系の時代は母から娘へ財産が受け継がれていました。その名残が通い婚という形で平安時代まで残っていました。

男女の関係は本人同士の純粋な恋愛関係でした。男は遠い夜道を通って女性の家に通い一番鶏がなく前に生まれた家に帰ってゆく通い婚でした。

気持ちが離れれば男は通わなくなり、女も気持ちがさめると男を家に入れませんでした。

男女間に経済の結びつきはなく、生活は別々でした。子供に父親という概念はなく時々母のところに姿を見せる男でしかなかったのです。

毎日顔をあわせる母方の祖父や母親の兄弟である叔父さんとの関係性の方がはるかに深かったのです。これが外戚一族が政治権力を握った背景でした。

写真は国東半島 海に突き出てる粟嶋神社