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2018/06/01

女神

古代で女性は神聖にしておかすべからざる存在でした。性交が自由に誰とでも行なわれていた時代は父親が誰かは解らなくとも母親は誰であるかは確実にわかります。母親が主な親であり、大地と母は命を生み出す事から同一視されていました。

34032593_1959221870807063_1788329879888986112_o.jpgアルテミス   紀元前1世紀   トルコ  エフェソス博物館


リキュア人は母系なので男性よりも女性に敬意を払っていました。母方の性を名乗り遺産を相続できるのは息子ではなく娘でした。族長の長男・次男は一族全体の中に消える運命にありました。エジプトも娘だけが相続権を握り両親を扶養する義務を負っていました。古代は母系を築いていました。

部族の男たちが牧草地などをめぐってあらそいが起こると、最初は拳でなぐりあうだけですが、エスカレートしてくると次には石を投げあうようになります。誰かが負傷すると今度は弓矢や剣を持ち出して戦い殺し合いを始めてしまいます。そんなときは女性たちが戦っている男たちの間に入って戦いをやめさせました。

戦いをおさめるのは年長の女性でした。彼女たちは尊敬されており、彼女たちを傷つけてはいけない掟があったのです。

アフリカのアカンの人々は男性に命を与えるのは女性と考えています。アカンで老女はアベレアという智慧をもっているので尊敬されていました。

34031917_1959221954140388_4913975119619031040_o.jpgエルチェの貴婦人 紀元前4世紀 バレンシア マドリッド考古博物館


哲学のフィロソフィアはギリシア語の智慧をあらわす女性名詞ソフィアからきています。アリストテレスは『形而上学』を「ソフィアをあつかう学」としました。グノーシスでは智慧の女神「ピスティス・ソフィア」として出てきます。無知の闇に閉じ込められているアダムとイブに知識の木の実を食べるようにヘビを遣わしたのが智慧の女神ソフィアです。仏教の智慧を表すプラジュニャー(般若)は女性名詞です。東洋も西洋も智慧を表すのは女性名詞でした。

アシャンティ王国の王母は最も信頼されていたので戦いをやめない王を罷免したり助言をして戦いをやめさせることができました。

34203634_1959221890807061_793368175688286208_o.jpgバサの貴婦人 アンダルシア 紀元前4世紀 マドリッド考古博物館


このように古代の老婦人たちは智慧を持っていたのでケルトやゲルマン人の間でも部族間の争いをおさめ、血の復讐の代わりに和平と同盟を結ばさせました。この智慧はベーリング海峡をわたってアメリカ大陸へ移り住んだネイテヴ・アメリカンのイロコイ連邦に受け継がれています。

イロコイ族の族母(クランマザー)は大きな権限を持っていました。族長は族母によって選ばれ、族長にふさわしくない言動があれば、族母は辞めさせることもできました。

食料がなくて困っている家族がいれば他の家族が惜しみなく食料を分け与えました。何か問題が発生すると多数決では無く、老若男女子供まで含めた皆が理解するまで話し合って決めました。

ヨーロッパから白人達がやって来るとアメリカ・インディンはこう言いました。

「欲しいと言ってくれれば自分達が持っているものはいくらでも分けてあげるのに、白人達はなぜ、銃で殺して奪うのか」

男性原理は分離敵対し競争します。現代社会は男性原理が優位になっています。これからバランスを回復するために愛と調和に導く女性原理が表に出てくるでしょう。

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アリアノイの水の妖精 紀元2世紀   トルコ ベルガマ博物館

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2018/06/01

母系から父系社会へ

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母系の縄文時代は嫁入りがありませんでした。結婚を強制される事も別れさせられる事もなかったのです。戸籍もなければ結婚制度も存在していませんでした。母から娘へ家と土地、財産が受け継がれ子供は母親の家族と一緒に暮らしていました。

財産分与の問題も嫁舅の人間関係のわずらしさもありませんでした。男性は自分の生まれた家で生活していたので、自分の子供を養育する事はありませんでした。父親という概念さえもなかったのです。

男女の関係は好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた本人同士の純粋な自由恋愛でした。

奈良・平安中期の時代までの子どもは母方の家で育てられる妻問婚が行われていました。

男は遠い夜道を通って女性の家に通い一番鶏がなく前に生まれた家に帰ってゆく通い婚でした。

気持ちが離れれば男は通わなくなり、女も気持ちがさめると男を家に入れませんでした。

男女間に経済の結びつきはなく、生活は別々でした。子供に父親という概念が希薄で時々母のところに姿を見せる男でしかなかったのです。

毎日顔をあわせる母方の祖父や母親の兄弟である叔父さんとの関係性の方が父親よりはるかに深かったのです。これが天皇の外戚一族が政治権力を握った背景でした。

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平安時代の中頃から男性が女性の元へ通う妻問婚から婿が住み込みで妻の家に同居する婿取婚へ変化していきます。妻の父が婚姻決定権をもつようになりました。

武家社会の到来によって惣領制という家族制度が起こってきました。

母系と父系が混在するようになると女性の財産の帰属について問題が生じるようになりました。鎌倉末期ごろから正式な婚姻関係の正妻から生まれた嫡出(ちゃくしゅつ)の長男にのみ全財産を相続させるようになり女性は相続から除かれました。

鎌倉から室町時代は婿取婚から嫁取婚に変わる過度期にあたります。

嫁という漢字の正式の読みは「ケ」「カ」で、元々の漢字の嫁の意味は「ゆく」、「売る」「なすりつける」です。

嫁を取る婚姻の形態の始まりは略奪、召し上げ、進上でした。

応仁の乱以降、相次ぐ戦乱により社会の秩序は乱れて殺伐となり、女性を路上で奪う乱暴なことが天下御免のこととして頻繁に行われるようになりました。女捕り、辻取り、拐かし(かどわかし)などと呼ばれていました。

武家たちは立場が下の下級武士や力の弱い武家に対して略奪、召上、進上等の嫁取り婚を要求したのです。

地域集団が父系の原理に基づいている社会では嫁に来た女性は「よそ者」でした。自分の生家の親兄弟や親戚との結びつきの方が強く、他の親族集団への帰属意識が弱いので、嫁は子供ができるまでは、夫の氏族の一員とみなされませんでした。

儒教的な観念が支配的になると女性は男子を産むことが最優先であり子孫を残さないことは不幸の最も最たるものでした。その為に女性は子供を産む道具にしか過ぎず、子供を産めない妻は離縁されました。

妻に対する貞操観念が強くなり、夫方の家に縛られるようになりました。結婚の決定権は家に握られ、自由恋愛は礼節にふさわしくありませんでした。

室町時代以降は長男相続が一般的慣行となり、女子の財産権は消失しました。女性の社会的地位は急速に衰退していきました。そして女性は穢れているとして聖なる場所への女性の立ち入りを禁止する女人禁制が現れたのです。
2018/05/20

日高見国



昔の東北は日高見国と呼ばれていました。
神社で奏上する大祓祝詞にも「大倭日高見の国を安国と定めて」と出て来ます。
また『日本書紀』の景行天皇の条には「東の夷の中に、日高見国有り」とあって、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征からの帰りに「日高見国から帰りて」とあり『常陸国風土記』に「此の地は本の、日高見国なり」とあります。
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鎌倉時代までの東北は蝦夷と呼ばれ天皇に従わず大和朝廷と異なる言語、風俗、習慣、価値基準を持っていた異民族とみられていました。
蝦夷の「日の本」は言葉がまったく通じず、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らないという鎌倉時代の記述があります。
津軽の安東氏は奥州十三湊日之本将軍と呼ばれていました。青森県東北町には「日本中央」の碑があり、豊臣秀吉の文書でも東北を日の本と呼んでいました。日本は東北の地名だったのです。
そして、中国の『旧唐書』(10世紀)と『新唐書』(11世紀)に「小国が大国を併合し日本と名のる」と日本からの使者がそう伝えたとあるので、倭の国が日高見国を併合して日本と名乗ったことになります。
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景行天皇の息子小碓尊(おうすのみこと)が熊曾建(くまそたける)を殺して、その名前をとってヤマトタケルとなった故事と一緒です。言葉は言霊といって名前は霊力があるのでその力を取り入れたのでしょう。
何れにしても、古代の日本は統一国家ではなく、大雑把にいえば大倭と日高見の二つに分かれていたのです。
日高見が北上の漢字表記となって日高見國の中心を流れる北上川となりました。
いまでこそ東北が辺境の地であるかのように思われていますが、縄文時代の東北は世界に先駆けて土器を発明した世界でも類のない文明の最先端地域でした。
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2018/05/08

舞と踊り 7 セマー(旋回舞踊)

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古い巫女舞は旋回運動を繰り返します。巫女の神懸りに導くまでの旋回動作が「舞」です。
「くるう」という言葉は、くるくる廻るときの「くる」と同じで、中世では「まう」「くるう」が同じ意味をなしていました。日常的な意識を超えた力に自我を明け渡したときに、「舞」が起こります。
つまり狂うのです。トランス状態の中で神懸かって神の託宣を述べるのが巫女でした。神楽は巫女が神託を下していた時代の神事が芸能となったものなのです。
イスラム神秘主義( スーフィズム)のメヴレヴィー教団は旋舞教団と呼ばれていて、くるくると回転をして踊るセマー(旋舞)が有名です。昨年トルコに行った時にカミさんにせがまれてセマー(旋回舞踊)を見てきました。
1925年12月トルコでは革命が起きてメヴレヴィー教団は解体、セマーは禁止となりました。現在は当時の様式を復活させて観光目的の芸能として演じられています。
最初にセマーゼン(神との合一を求める舞い手)たちが登場して円を描くように会場を歩きます。
シェイフ(マスター・長老)が赤い敷物に立ち、舞い手と1人ずつお辞儀します。
会場は宇宙であり、シェイフは太陽、舞い手のセマーゼンたちは惑星です。
この宇宙で回転していないものなどありません。
円環の中で生と死が繰り返されています。
円は始まりも終わりもなくひとつに繋がっています。
宇宙という舞台で万物万象の天地開闢が演じられるのです。
イスラム神秘主義の目的は「神と自己との神秘的合一」です。
その神との一体化を妨げる根源が、自我の存在であるとスーフィーは断言します。
欲望、悲しみ、苦痛など人間の苦悩の根本原因が自我なので、イスラム神秘主義の探求の道の頂点は自我が消滅したファナーと呼ばれます。
その最高の手段が詩と音楽と舞でした。
最初にルーミーの詩を朗唱し、ネイ、クデュム、カーヌーン、ルバーブ、ケメンチェ、タンブール、ウードなどの楽器で演奏される音楽にあわせて旋回をします。
左手のてのひらを下に向けて、右手はてのひらを上に向けて左脚を基点に反時計回りにぐるぐる回ります。
左手は地のエネルギーをもらい、右手からは天のエネルギーを受けて自分のセンターであるハートにもってきます。
セマー(旋回舞踊)をしていると内側の中心は静止していて外側の見ている世界は物凄いスピードで動きます。
外側のすべてがとどまる事なく 次から次へと変化して行きます。
しかし内側の中心だけは変わらないで静止しています。
セマー(旋回舞踊)は外側と内側の境界が消えて
その全体を見ている本当の私に気がつかせてくれるのです。

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セマー(旋回舞踊)の中で自分と世界との間の境界線が消えます。神以外のものは何もなく、全てが神でした。
「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分の自分という皮を脱ぎ捨てた。そして私は、私自身の中を覗き込んで見た。どうだろう、私は彼だったのだ」イスラムの神秘家バスターミー
私は彼だったの彼は神ですが、しかし「私は神だ」と言ってしまうと神を冒涜していると世俗的な宗教者から異端の扱いを受けて殺されてしまう危険性がありました。
そのためにスーフィーたちは表面的にはわからないように神秘的な意味を込めた比喩と象徴を用いました。
イスラム神秘主義探求の道の頂点は自我が消滅したファナーと呼ばれます。
仏教で言えば涅槃です。
しかし最も大切なのはバカーとされます。バカーは存続と訳されていますが自我が消滅したファナーから帰還して人間的自我を持った普通の人として世間を生きる事なのです。
それは世界の中にいて世界から離れるのでもなく世界に同化してしまうのでもありません。
世界に属さないで世界にいる事でした。
「私は二元論を捨て二つの世界が一つであるのを見た。一を求め、一を知り、一を呼ぶ。私は恋しい人の杯に酔い、二つの世界は視界から消えた。私は酒宴や馬鹿騒ぎ以外にすることはない」イスラムの神秘家ルーミー
「この世の歓楽は麝香(じゃこう)の匂いの様なもの。匂いは儚く消える。祝福された人は匂いに満足せず、麝香(じゃこう)を求め麝香そのものになり世に香りを伝える。」イスラムの神秘家ルーミー
2018/05/08

「遊女(あそびめ)」舞と踊り 6

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古代は鎮魂祭を遊びといい禊祓いを執り行う巫女のことを遊女(あそびめ)といっていました。
現在では遊女といえば売春婦と同意語になっていますが実体は神社や寺社で神事芸能を演じる傀儡たちのことでした。奈良時代に万葉集で詠まれた遊行女婦(うかれめ)の遊行とは浮かれ騒ぐことではなく、諸国を歩いて芸能を演じる女性集団のことで売春を伴うことはありませんでした。


平安時代中期に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると芸能を生業としたのは遊女で夜を待ちて淫売をするのは夜発といいました。
春をひさぐ女性が増えてきたのは嫁取り婚が出てきた平安時代の中期ごろからです。母系から父系に変わり婿取婚から嫁取り婚になり男性が経済的な支配を強めると女性の経済的自立は弱まってきたのです。
一夫一妻制が定着して自由な男女間の関係性が失われると婚姻の外に性の捌け口を求める男性が現れました。暮らしのために性を売る女が増えてくるとやがて遊郭が現れて経済的に自立できない女性たちは大規模な売春組織に飲み込まれて行ったのです。

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古代の母系社会は母から娘へ財産が受け継がれたので女性は経済的に自立できたのです。暮らしのために性を売る女性はいませんでした。結婚制度がなく男性は子供の養育義務がないので、男女が自由に別れることに経済的な抵抗がありませんでした。
そして、古代には相互に求愛の歌謡を掛け合う歌垣(うたがき)という男女が出会うことができる祭があったので、誰もが容易に相手を見つけて変えることができました。万葉集で「歌垣の日は昔から神に許されている日なので他の誰と通じても咎められることはない」と歌われています。
好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた縄文時代は自由恋愛だったので売春がなかったのです。
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