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2019/02/17

天皇家の祭祀





新しい天皇が誕生するときに大嘗祭(だいじょうさい・おほにへまつり)が行われます。
天皇は神官なので本来の仕事は神事です。

毎年、11月22日は鎮魂祭、23日は新嘗祭(にいなめさい)が宮中で行われています。
7世紀頃までは大嘗祭と新嘗祭の区別がありませんでした。その起源は神武天皇の時代まで遡ります。

古代の日本はスサノオと稲田姫・ニギハヤヒと瀬織津姫の国津神の系統がまつりごと(祭儀と政治)を司っていました。そして、国津神から天津神へと国譲りがおこなわれたのです。

日本の弥生は国津神と天津神の二重構造になっています。

日本は縄文の母系から弥生・古墳時代の双系・父系と社会構造が変わり女性の地位は低下して男性が支配者となりました。
呪術的な縄文から技術的な弥生に変わっても日本は母系の影響があったので婿入婚が基本でした。

父系の天津神である神武天皇は母系の国津神へ婿養子に入って国津神と天津神は和合したのです。
神武天皇から9代目の開化天皇までの間の皇后はニギハヤヒを祖とする磯城氏、穂積氏、物部氏から出ています。
物部氏の祖ウマシマジ(宇麻志麻遅命)は十種神宝( とくさのかんだから)を奉献して、神武天皇即位の祭儀を執り行いました。
ニギハヤヒが天神から授けられた十種神宝は、『先代旧事本紀』で天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)といい、皇位継承の証しでした。天皇家の祭儀は物部氏の儀式を取り入れたのです。

「天皇」の称号が使われ、三種の神器が公式に皇位継承の象徴とされたのは、7世紀の天武天皇と持統天皇の時代からです。
それまでの天皇は「大王(おおきみ)」とよばれていました。鎮魂法はその後、文武天皇の時代に宮中祭祀の鎮魂祭として儀礼化され、701年の『大宝律令』において制度のなかに取り入れられました。

鎮魂祭の執行日は冬三か月の中の月である仲冬の寅の日に規定され、翌日の卯の日に大嘗祭と新嘗祭が執行されました。
鎮魂法は古代の冬至祭と関係していることがわかります。

古代の人々は、身体から魂が遊離することが死だと考えていました。命を復活させるのは魂を呼び戻すことなので、太陽の光が一番弱くなる冬至に太陽の復活と豊作を祈って魂の再生の儀式をおこないました。

生命力が弱くなる冬至に、天皇の蘇生を祈る祭儀が宮中の鎮魂祭なのです。

スメラミコトは神の依代となって先祖からの言霊を授かる鎮魂祭と大嘗祭という儀礼で霊統を受けついできました。大嘗祭の霊力は1年ごとに衰えるので新嘗祭を執り行うことで復活させていました。

ところが、後土御門天皇の時代(1466年)から東山天皇の時代(1687年)までの220年の間の大嘗祭は途絶えていたのです。
新嘗祭も後花園天皇(1462年)以降、東山天皇(1688年)の時代になるまで途絶えていました。武家社会になると江戸時代の後期までの間、天皇家は古代から受けて継いできた祭祀の霊力を失っていたのです。

天皇家の領地である禁裏御料の石高は小大名くらいの3万石くらいしかありませんでした。長く武家社会が続き庶民の崇敬の対象は将軍や領主にあり氏神やその土地の神々になっていました。

277年振りに新嘗祭が再興されたのは徳川綱吉の元禄時代、吉田家においてでした。天皇家にはもはや財力がなく再現は困難で略儀だったようです。

明治政府は、神武復古をかかげ、天皇中心の国家体制を敷きました。政治を司る神祇官を含む太政官制度が廃止され、天皇の宗教的権威と公家の関係で成り立っていた朝廷は消滅しました。

新しい政府の要職に就いたのは維新の原動力となった薩摩・長州・土佐・肥前の出身者でした。
しかし、途絶えていた鎮魂の祭祀を、水面下で継続してきた神祇官を外して、天皇家の鎮魂の祭儀はできませんでした。罷免された白川家と吉田家は、改めて神祇官に任ぜられました。

新嘗祭が本格的に再興されたのは、1873年(明治6年)11月22日でした。
はるか太古の昔、人々は誰もが目にみえない神々と霊的交流をしていました。

女性は別な魂を呼び寄せて体内に宿すことができたので、生命を生み出す力がある女性が巫女となって神の代理人となっていました。
沖縄の久高島で12年に一度おこなわれていた神事イザイホーでは30歳を超えたすべての既婚女性は先祖の霊と交信する神女となっていました。

左脳優位になると自己の本質である「直霊(なおひ)」が自我意識に覆われるようになり、神の声は聞こえなくなりました。
鎮魂とは人間が生きながらにして神となることを意味しています。

禍罪(まがつみ)が直霊(なおひ)を覆っていたので鎮魂の儀式をして禊祓いをしなければ神に帰ることができなくなくなりました。
『古事記』に、仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さにわ)になって神功皇后が帰神を行ったという記述が出てきます。
古代は巫女が神を降ろす役割をし、男性の審神者(さにわ)が巫女に降りている神が本物かどうか確かめる役割をしていました。
父権社会になると男性がスメラミコト(天皇)となって祭儀だけでなくや政治も兼ねるようになり大王として軍事の指導者にもなっていったのです。

古代は女性が祭祀権を持っていました。古墳時代頃までは男性と女性が入れかわり祭祀権をもち、室町時代に祭祀権は女性から男性に変わってしまい現在まで続いています。

天皇家の跡取りに女性が生まれているということは、時代は再び女性が祭祀を行うように促しているように思えます。
そして国民の安寧と繁栄を祈ると説明されている祭祀の本来の目的は直霊(なおひ)になること、つまり本当の自分に帰ることなのです。それが祈りの奥義です。

参考文献
清水友邦著『よみがえる女神』ナチュラルスピリット
https://www.amazon.co.jp/よみがえる女神-清水-友邦/dp/4864512523
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2018/05/20

日高見国



昔の東北は日高見国と呼ばれていました。
神社で奏上する大祓祝詞にも「大倭日高見の国を安国と定めて」と出て来ます。
また『日本書紀』の景行天皇の条には「東の夷の中に、日高見国有り」とあって、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征からの帰りに「日高見国から帰りて」とあり『常陸国風土記』に「此の地は本の、日高見国なり」とあります。
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鎌倉時代までの東北は蝦夷と呼ばれ天皇に従わず大和朝廷と異なる言語、風俗、習慣、価値基準を持っていた異民族とみられていました。
蝦夷の「日の本」は言葉がまったく通じず、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らないという鎌倉時代の記述があります。
津軽の安東氏は奥州十三湊日之本将軍と呼ばれていました。青森県東北町には「日本中央」の碑があり、豊臣秀吉の文書でも東北を日の本と呼んでいました。日本は東北の地名だったのです。
そして、中国の『旧唐書』(10世紀)と『新唐書』(11世紀)に「小国が大国を併合し日本と名のる」と日本からの使者がそう伝えたとあるので、倭の国が日高見国を併合して日本と名乗ったことになります。
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景行天皇の息子小碓尊(おうすのみこと)が熊曾建(くまそたける)を殺して、その名前をとってヤマトタケルとなった故事と一緒です。言葉は言霊といって名前は霊力があるのでその力を取り入れたのでしょう。
何れにしても、古代の日本は統一国家ではなく、大雑把にいえば大倭と日高見の二つに分かれていたのです。
日高見が北上の漢字表記となって日高見國の中心を流れる北上川となりました。
いまでこそ東北が辺境の地であるかのように思われていますが、縄文時代の東北は世界に先駆けて土器を発明した世界でも類のない文明の最先端地域でした。
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2018/05/08

「遊女(あそびめ)」舞と踊り 6

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古代は鎮魂祭を遊びといい禊祓いを執り行う巫女のことを遊女(あそびめ)といっていました。
現在では遊女といえば売春婦と同意語になっていますが実体は神社や寺社で神事芸能を演じる傀儡たちのことでした。奈良時代に万葉集で詠まれた遊行女婦(うかれめ)の遊行とは浮かれ騒ぐことではなく、諸国を歩いて芸能を演じる女性集団のことで売春を伴うことはありませんでした。


平安時代中期に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると芸能を生業としたのは遊女で夜を待ちて淫売をするのは夜発といいました。
春をひさぐ女性が増えてきたのは嫁取り婚が出てきた平安時代の中期ごろからです。母系から父系に変わり婿取婚から嫁取り婚になり男性が経済的な支配を強めると女性の経済的自立は弱まってきたのです。
一夫一妻制が定着して自由な男女間の関係性が失われると婚姻の外に性の捌け口を求める男性が現れました。暮らしのために性を売る女が増えてくるとやがて遊郭が現れて経済的に自立できない女性たちは大規模な売春組織に飲み込まれて行ったのです。

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古代の母系社会は母から娘へ財産が受け継がれたので女性は経済的に自立できたのです。暮らしのために性を売る女性はいませんでした。結婚制度がなく男性は子供の養育義務がないので、男女が自由に別れることに経済的な抵抗がありませんでした。
そして、古代には相互に求愛の歌謡を掛け合う歌垣(うたがき)という男女が出会うことができる祭があったので、誰もが容易に相手を見つけて変えることができました。万葉集で「歌垣の日は昔から神に許されている日なので他の誰と通じても咎められることはない」と歌われています。
好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた縄文時代は自由恋愛だったので売春がなかったのです。
2018/05/08

「白拍子」 舞と踊り 5」

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平安時代末期から鎌倉時代にかけて白拍子と呼ばれた男装の舞妓がいました。
平家物語の平清盛の寵愛を受けた祇王祇女と仏御前、源義経と連れそった静御前は特に有名です。
後鳥羽法皇が抱えていた白拍子亀菊は親鸞・法然が流罪になる原因を起こしたり、亀菊に所領として与えた地頭を罷免するように後鳥羽法皇が鎌倉幕府に要求したことで、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力の争い「承久の変」が起きています。
白拍子とは旋律とリズムの拍子のことで白拍子は神事として使われていました。
100日の日照りの時に神泉苑で白拍子が雨乞いの舞を舞うと雨音が大きく響いて三日間も続く雨が降ったという説話があるように、白拍子は神事芸能の傀儡をルーツにしていました。
天皇家の「遊部(あそびべ)」は葬式の時に刀を負い矛を持った女の禰義(ねぎ)と刀を背負って酒食を持った女の余此(よし)が呪文を唱えて棺を周っていました。のちに刀と矛は女に向かないといって夫に変わる話が伝わっています。
「大山寺縁起」には白拍子という遊女がいたが不浄があるので追放したという記述があります。平安鎌倉と時代の経過に従って神事から女性は追放され男性が独占するようになったのです。


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こうして、神事から追放された女性の中には共同体を作り、定住して仕事に就かず山から山へ芸能をしながら漂白の旅を続けた人たちもいたようです。
それでも遊女、傀儡、白拍子たちは教養が高く公家の家に出入りしては即興で和歌を詠んで和歌集に入るものもいました。
更科日記には足柄山を通過した時に遊女の歌を聞いて感動した話が出てきます。月もなく暗い夜に身なりも小綺麗にした15と20、50ばかりの美しい3人の遊女が現れて、唐傘をさして、火を灯し、美しい声で上手に歌ったので、人々はたいそう感動してもてはやしました。歌い終わった遊女たちが暗くて怖い山の中に帰ってゆく光景をいつまでも見送ったのでした。「こはた」という遊女の孫だと名乗っているので、遊女たちが母親から娘へと受け継がれる母系だったということがわかります。
2018/05/08

「ヒルコとえびす」舞と踊り 4

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平安時代後期の公卿、大江匡房(おおえまさふさ)によると男女の芸能集団が傀儡で女性だけの芸能集団を遊女と呼んだようです。白拍子、歩き巫女、傀儡が信仰する神は百太夫でした。

宇佐神宮の末社の百太夫は隼人族が捕虜となって斬首された霊を祀る首塚に建てられていました。

傀儡たちが信仰する百太夫神は八幡信仰の広がりとともに西日本に広がって行きました。

石清水八幡宮にも住吉大社と広田神社にも末社として百太夫社があったことが書かれています。広田神社の末社だった西宮神社は現在ではえびす神社の総本社として本社を凌ぐ賑わいを見せています。

西宮神社の傀儡子たちが「えびす廻し」「えびすかき」と呼ばれる「えびす舞」を全国各地で公演する事で、えびす神は各地に普及しました。

西宮神社では「蛭子祭」と綴ってエビス祭りと読ませているように「えびす神社」の主な主祭神にヒルコとオオクニとコトシロヌシが祀られています。

イザナギとイザナミが最初に産んだ子がヒルコです。しかしヒルコは不完全だったので海へ流されてしまいました。

祝詞の後半で浅瀬にいる禍津日神(まがつひのかみ)=瀬織津姫がこの世のあらゆる罪穢れを引き受けて大海原に持ち去っていくと語られています。

これは海に流されたヒルコの話と同じです。

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海に没した隼人を供養するように八幡神が宣託して傀儡たちの放生会が始まった事とヒルコが重なります。また海中の石となった和多都美(ワタツミ)神社の御神体「いそらえびす」は八幡縁起で語られる海中の石舞台となった海人族の祖、阿曇磯良(あずみの いそら)=百太夫神と同じです。

出雲族のコトシロヌシもまた国譲りの後、海の彼方に去っています。

ヒルコが不完全だった理由が女性のイザナミが声をかけたからだとされているのは男性原理が優位になる前の母系の先住民、海人族のことにも思えます。

ここでヒルコ=えびす=いそらが繋がります。海に流されたヒルコは母系の先住民わたつみ族のことを表していました。

ヒルメを先祖とする天孫族に国を譲ってヒルコを先祖とするわたつみ族は海中に没して精霊となったのでした。

罪、穢れを背負ったヒルコは海に流して祀ることで、罪が祓われ人々に福がもたらされました。

傀儡たちは祭礼の時に「えびす舞(傀儡舞)」を舞うことで人々の穢れを引き受け、それを神に捧げる舞で神様にお渡して、罪穢れを祓ったのです。
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