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2018/10/16

あれも全体 これもまた全体



私たちは成長の段階で、マインド(自我)を形成します。
幼児は本能のおもむくままに行動しますが、
あるがままの自分を否定されると、
愛される自分と愛されない自分に分けてしまいます。

一なるものに境界線が引かれることで病が生じます。
マインドは分離している事に気がつかないので、
母親から離された子供の様に漠然とした不安に襲われます。

マインドは物事に優劣をつけてみています。
マインドは幸と不幸、良い悪い、愉快と不愉快という二元性に分離した思考に囚われています。
マインドは抑圧した影を外側に投影して、自分と他者を切り離して見ています。
マインドは境界を作って内側の自分だけが特別と思っています。
私たちの知覚はマインドによって制限されています。
世界から切り離されているという分離感を現実だと思い込んでいます。

あるがままの世界を分離して見ているのです。
マインドは全体から分離して苦しみ続けます。

その分離感から全体に戻ろうという衝動がおきます。

しかし、戻ろうと思うこと自体が思考なので
そこから抜け出す道はありません。

思考が自分だと思っているので
思考の罠にはまっています。

思考は、今ここにいられません。
未来を悲観して、心が不安におそわれているときは今ここにいません。
今ここにいると思考に気づくことができます。

体が病んで悲観していることに気づいています。
失敗を後悔していることに気づいています。
失って悲しんでいることに気づいています。
将来に対して不安になっていることに気づいています。
思考が次から次へと際限もなく湧き上がってくることに気づいています。
その気づきが私です。

自分という思いは概念であり
他者を非難したり嫌悪しているマインドをあるがままに見ているのが本当の自分だと気がつくと
行為者としての自分は存在しないということがわかります。

いままで自分だと思っていた頭の中の自分はいませんでした。

自分がどこにもいないということは自分はすべてだということです。
すべては虚空であり全体なのです。

自己の全体性を取り戻すと他人の自我も自分の自我も受けいれることができます。

思考は全体を分離させて見ていますが
分離して見ている部分もまた全体なのです。

全体は増えることも減ることもなく
全体から全体を引いても全体が残り
全体に全体を足しても全体が残ります。
全体を分けることはできません。

全体は得ることも失うこともなく
死ぬことも生まれることもありません。

すべての存在は大いなる全体であり
全体以外はありません。

世界をあるがままに見た時
分離した私はどこにもなく
見るものも見られるものもなく
あるがままの全体だけがそこにあります。

『om
あれも全体 これもまた全体
全体より生ずるは 常に全体だからである
全体より全体を取り出すとも
見よ 残るは全体である
om
安らぎよ 安らぎよ 安らぎよ』
イーシャ・ウパニシャッドより

『わしの見地からすれば、
仏もなければ衆生もなく、
古人もなければ今人もない。
得たものはもともと得ていたのであり、
時を重ねての所得ではない。
もはや修得の要も証明の要もない。
得たということもなく、失うということもない。
いかなる時においても、わしにはこれ以外の法はない。』
臨済録より

『是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ)
不垢不浄(ふくふじょう)
不増不減(ふぞうふげん)』
般若心経より

『空を観ずる行為もまた空であって、
空を空と認識することももはや有り得ない。
その認識すら無くなれば、
まさに無の中の無、無の極点に至り、
心は永久に静寂となる』
道教・西派内丹法より

『神は眼に見える形や色を持っていないので
眼からではありません。
音もなくやってくるので耳からでもありません。
空気ではなく精神に混じっているので鼻からではありません。
内側からでも外側からでもありません。
自分よりも高く昇ってみてもそれよりも高い所にいました。
ずっと下の深みにも神はいました。
そして外にも内にもいたのです。』
キリスト教神秘家・聖ベルナルドゥスより

『神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある』
4〜5世紀のキリスト教哲学者アウグスティヌスより
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2018/10/14

病の原因




心が調和されていれば病にならないといった人がいました。

その人はカリスマ性があり信奉する人々は多く、人々を救う使命を持った偉大な魂だと信じられていました。しかし、その人は病に倒れて亡くなりました。心が調和されていたはずの教祖の病気による死は信者に動揺を与えました。救うために教祖は人々の悪いカルマを背負われたのだというまことしやかな説明がされました。そうして、信者たちは信仰を続けました。

病気になる人は精神的な欠陥があり、心が正しければ肉体も健康になると信じている人は精神世界の人に多いようです。

ガンや病気で悶え苦しんで亡くなった聖者は大勢います。逆に霊性に興味がなく根性が悪く、殺人、盗み、詐欺を働いても病気をせずに強健な肉体をもった人もいます。カテゴリーが異なる肉体の健康と心の健康を同じ次元に捉えることはできないようです。

病気になる聖者は偽物で、あるいは宇宙の真理を悟ったといっても、所詮ただの人間にすぎないと考える人がいるかもしれません。

クリシュナムルティは膵臓癌になったと知ったとき「私はどんな悪い事をしたのだろう」と呟いたそうです。感謝と喜びにあふれ、慈愛に満ちた態度で接し、すべてをあるがままに受け入れる清らかな心の人でも病に倒れます。

白鳥が病気になっても白鳥の心に欠点があり、霊性が低いとは言われません。単純に心が正しければ病にならないは根拠のない思い込みのようです。

インテグラル・ヨーガの創始者シュリ・オーロビンドが階段で足を踏み外して骨折したことがあります。「マハトマ(偉大な聖者)であるあなたがこれを未然に防ぐことをできなかったのでしょうか?」とたずねた人がいました。オーロビンドは「生身の体は限界があり、物理の法則にしがうのです。」と答えたそうです。

病の原因がその人の不完全さにあるのではないことが分かっていれば、自分が病になった時にいたずらに罪悪感を抱く必要はないでしょう。

病気の原因をすべて食物のせいにして食事や健康食品だけで病気を治そうとしたり、感謝して心が調和していれば病気にならないと考える人がいますが、病気を特定の原因のみに還元してしまうことはできないのです。

肉体が健康に見えても心が病気の人もいますし、肉体が病気でも心が健康な人も居ます。肉体の病と精神の病はカテゴリーが違うのです。

純粋に物理的な次元に原因があるときの対応は心理的なことよりも環境の改善や呼吸や体の歪みの修正や食べ物や薬、手術のほうが効果があります。

いくら食事に気をつけて健康的にしても、食べ過ぎたり運動不足だったり、健康になるためにと無理にいやいや食べたり、恐怖や不安で心が一杯で、神経質で心がストレスに弱かったりすれば病が発生します。いくら悟った賢者や聖者でもであっても、毒物や発がん物質を取り続ければ病になってしまうでしょう。

仏教の開祖、お釈迦さまも食中毒でお腹を壊し、苦しんで亡くなっています。

ヨーガ・チューダーマニ・ウパニシャッドによれば身体にはグロスボディ(粗大)、サトルボディ(微細)、コーザルボディ(元因)の三つのレヴェルがあります。

サトルボディ(微細)に問題があるときは情動など無意識に潜むトラウマの解放と関係し、薬や手術、食事療法では解決しません。

医師は薬や手術などの物質的なグロスボディ(粗大)のレヴェルしか扱わず、治療師は自己の手法に固執して異なる身体のレヴェルを混同してしまいがちです。

コーザルボディ(元因)の病は本当の自分を忘れて、深く眠りこけていることです。

世界をあるがままに見ないで頭の中の言葉が作り出す幻想を見ています。自己と世界は分離して存在しているという幻想をいだきサンサーラ(輪廻)という迷いのなかに入り込んでいます。そのため生老病死という四つの苦に満ちた状態に置かれています。

コーザルボディ(元因)の治癒とは夢と眠りから目覚めることです。智慧(プラジュニャー)が開かれると、すべてのものは縁によって生ずる実体がない空(シュニヤータ)であるという洞察が起きます。

自己の本質は物質とマインドのレベルを超えているので傷つくこともなく、病むこともなく、生まれもしないし、死にもしません。

本当の自分は病と健康、生と死という二元性を超越した存在なのです。

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無条件の愛、永遠の至福、無限の光、沈黙、虚空などの言葉は言語で表現できない真実の自己を表しています。
思考は自己イメージを持ちそれが自分だと思い込んでいます。
思考に同一化することをやめてリラックスしたとき
自他を分ける境界が消え観照の意識だけがある微細な領域に気がつきます。

探求者を観照に誘導するワークショップをします。

◉2018年11月25日盛岡
清水友邦1dayワークショップ『チャクラ・アウェイクニング』

https://www.facebook.com/events/242525693099446/

◉2018年12月7日8日東京
清水友邦・個人セッション

https://www.facebook.com/events/244163209596851/

◉2018年12月9日東京
清水友邦1dayワークショップ『ハートの目覚め』

https://www.facebook.com/events/1119567348212611/

◉2019年4月28日29日30日花巻
清水友邦2泊3日ワークショップ
~古い自分の死と新しい自分の再生~

https://www.facebook.com/events/237520000444040/

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2018/09/30

盤珪 [とかく思えば皆うそじゃ」



9月30日は江戸時代の名僧盤珪(ばんけい)さんの命日です。盤珪(ばんけい)さんは写真の姫路の龍門寺で入寂しました。

「悪をきらうを善じゃと思う きらう心が悪じゃもの」 盤珪
「善をしたこと善じゃとうじゃる うじゃる心が悪じゃわい」盤珪
「善きも悪しきも一つにまるめ 紙につつんで捨てておけ」盤珪

盤珪さんはやさしい日常の言葉で教えを説いたので大名から庶民にいたるまで幅広い階層の人々の帰依を受けました。樹木希林さんの葬儀が行われた光林寺は盤珪さんの創建で盤珪さんが説法をすると千余の人々でうずまったといいます。鈴木大拙は『禅思想史研究」で不生禅の盤珪さんを高く評価していました。


盤珪さんの有名な短気の問答です。
質問
「それがしは生まれついての短気でございまして、直そうと存じますけれども、これが生まれつきでございまして直りませぬが、これはなんと致したら直りましょうか」
盤珪
「そなたは面白い物を生まれついたのい。今もここに短気がござるか? あらばここへお出しやれ。直して進ぜよう」
質問
「ただ今はござりませぬ。何とぞ致した時に、ひょっと短気が出まする」
盤珪
「しからば、短気は生まれつきではござらぬ。なにかしらのご縁によって、ひょっとそなたが出かすもので、何かした時もそなたが出かさなければどこに短気があるものぞ。そなたが出かしておいて、それを生まれつきというのは難題を親のせいにする大不孝者というものでござる。
生まれつきなら短気は今もあるはず。親から生まれついて持ったものは不生の仏心ひとつで、それ以外のものは一つもありませぬ。一切の迷いは勝手に自分をひいき(自己中心的)にして、自分が思いを起こすからで、それを生まれつきと思うのは愚かでござる。われが思いを出かさなければ短気がどこにもありますまい。ない短気を直すとは無駄なことで、不生の仏心をしれば迷いたくとも迷われませぬ。不生の仏心でござれ。」

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自我はたくさんの記憶や感情、思考で出来ています。頭の中では思考が次々と浮かんでは消え、刻々と変化してとどまるところがありません。思考はうつろい、変化してゆく諸行無常なものです。「あーでもない。こーでもない。」と言っている私はいないのです。

「無為の心はもとより不生 有為が無き故迷い無し」盤珪

実体のない思考を私と思い込んでしまっているのが私たちです。ですから盤珪さんに「短気を出しなさい」と問われても「はいこれです」と差し出すことはできないのです。

盤珪さんの「不生の仏心」とは生まれる事も死ぬ事もない本当の自分のことです。永遠の自己は誰もが生まれつき備わっています。本当の自分に気がつけば思考が自分ではないことがわかるのでマインドに巻き込まれることがなくなります。「不生の仏心」に気がつけば、悟りを得ようと念仏を唱えたり、厳しい修行も坐禅もする必要がないと盤珪さんは教えました。

「仏道修行をつとめし後は 何もかわりは得ぬものを」 盤珪
「迷い悟りはもと無いものじゃ 親も教えぬならいもの」 盤珪
「悟ろ悟ろとこの頃せねば、朝の寝ざめも気が軽い」盤珪

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禅では悟りの境地を『桶の底が抜ける』 と表現します。底が抜けた何もない空っぽの桶は虚空を表しています。思考が現れては消える虚空である空っぽの桶それが自己の本質です。
なかなか桶の底が抜けない探求者はすぐれた師を探して桶の箍(たが)を緩めてもらいます。箍(たが)が緩んでしまえば、あとは時期がくれば底は自然に抜けます。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」盤珪

箍(たが)を緩めるつもりの講釈が人によっては逆に箍(たが)を締めてしまうことがあります。
講釈はマインドを強化してしまいます。究極で桶はありませんが老婆心ながら

「昔思えば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじゃ」 盤珪
2018/09/28

観照



マインドフルネスという言葉が瞑想として紹介されています。

マインドフルネスが頭をフルに使って今という瞬間に集中することと思っている人がいました。
集中は瞑想を得ようと努力している状態です。集中はマインドと同化している状態なので瞑想ではなく瞑想の前段階です。
集中で得られる境地は集中をやめると消えてしまいます。体験しているのはマインドだということにマインドは気がつきません。
瞑想とは思考と同一化しないで、努力することなく観照が起きている状態のことです。

覚醒・自覚・気づき(awareness)観照(witness)禅定(dhyana)光明 (enlightenment) 涅槃(nirvana) 三昧(samadhi) 瞑想(Meditation)非二元(nonduality)これらの言葉は皆、今ここで起きている事に気がついている私たちの本性を示しています。

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先日、来日した瞑想のファシリテーターのマニーシャはインドの神秘家Oshoの晩年の15年の間、彼のそばで過ごしていました。彼女の著書「和尚との至高の瞬間」から紹介します。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784881781661

マニーシャは最初、観照を理解できませんでした。

「自分はマインドそのものだ。いったいどうしたら、それから離れられるというのだろう。どうしたら、それを見つめられるのだろう。和尚は、マインドにエネルギーを与えるからマインドが存在するのだと言うが、それが理解できない。」

マニーシャは何年も継続して様々なOSHOの瞑想を行いました。

ある日マニーシャに観照が訪れました。OSHOの講話を聞いている間、マニーシャは吐き気をともなう頭痛が激しくなり、耳も聞こえなくなり、話すことも、動くこともできくなってしまいました。自分がふたつに引き裂かれる感覚、肉体から離れていく感覚を感じて、何とも言えない恐怖に襲われました。

OSHOの講話が終っても口も聞けず動けないマニーシャの異常な様子に気がついた友人たちは抱きかかえて彼女の部屋に担ぎ込みました。マニーシャはなんとか話そうとしますが言葉が出てきません。頭の中で言葉を組み立てても意味をなさない声がするばかりです。最後にやっと、起こっていることをOSHOに知らせてほしいと伝えましたが、「あの人に伝えて」としか出てきませんでした。OSHOの名前を思い出せなかったのです。

夜になると体の機能が戻ったので夜のダルシャンに行くと、OSHOは愛情に満ちた様子でマニーシャを迎えました。「あなたの名前が思い出せなかったんです!」とOSHOに向かって叫ぶように言うと、OSHOは「初めて、あなたは私が誰なのか知ったというわけだ」とクスクス笑いました。

そしてマニーシャは「小さな悟り」を体験したのだが、マニーシャが高く舞い上がりすぎないように、それをミニと呼ぶのだと次のように話を続けました。

「それは大きな衝撃のエネルギーだった。そして私は最初から何かが起ころうとしていることに気づいていた。あなたは、あるスペースにいた。それはほとんど、LSDを飲まずにLSDのトリップを体験したようなものだ。だからこそ、それはたいへん衝撃的だった。あなたがLSDを飲んだとき、あなたは自分が何をしたのかを知っている。あなたはそれが効いてくるのを待つ。だが、今回のことはあまりにも不意にやってきた。何の警告もなしにやってきた。あなたはそれを待っていたわけではなく、突然それはそこにあった。それは全身を掻き乱す。なぜなら、あなた自身とあなたの肉体の間に、ある距離が生まれ、古い繋がりが失われたからだ」


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次の朝、マニーシャは原稿を編集しようとしましたが文章を読んでいても、頭からすぐに文章が消えてしまうので編集などとてもできませんでした。

頭は空っぽで、考えると思考が静かに頭の中をパレードするかのように横切っては消えました。非常にふわっとした、拡張感を味わっていました。

マニーシャは和尚の庭を見ていました。樹木と融合することもなく、特別な啓示もなく、花々の周囲が輝く神秘的なことも何もなく、興奮している感じも、高揚感もなく、至福といった感じさえなく、マニーシャはただ、いまここに存在していました。

思考に同化している人は観照が何か劇的な体験が起きると思っていますが、そこには体験する人がいないので、ただ沈黙があるだけなのです。

「生まれて初めて心による内側の注釈なしに、ただ直接見ること、直接体験することは、まったく驚異的だった。私と私が見ている物の間には、何も介在しない。私とすべてが、ただ在るがままに存在している」マニーシャ

「後になれば、この体験を至福に満ちたものと説明できたでしょう。その時にはただ広大さであり、沈黙であり、虚無だったのです。」マニーシャ

観照が起きると最初に見守るもの(主体)と見られる者(客体)に分離します。いままで「見られる者(客体)」が自分だと持っていた自分が自分ではないと気が付いた時、古い自分は混乱します。

マニーシャは最初の沈黙に恐怖を覚え、閉所恐怖症のように感じたこともありました。私を飲み込み抹殺しようと脅かす沈黙に向かって叫び、それを切り裂いてバラバラにしてしまいたい衝動を覚えたこともありました。しかし、そのプロセスを止めないであるがままにしておけば自然に治ります。

以前と同じ編集の仕事が出来なくなって心配するマニーシャにOSHOは仕事をする能力は戻ってくるだろう、それとともに、より豊かな創造性がやって来るだろうと勇気付けました。

「あなたはまったく正しい道を行っている。一度も道を間違えなかった。本物でないすべてを、ただ溶かし続けなさい。雲のように感じるのは、素晴らしいことだ。観照そのもののように感じるのは、素晴らしいことだ」OSHO

やがてマニーシャは落ち着きお気に入りのコートに袖を通すように沈黙の中へ入ることができるようになりました。

マインドと同一化している私たちはこれらの言葉を頭で理解しようとします。しかし、観照は私というマインドが沈黙した時に気がつくのです。


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自分がふたつに引き裂かれているようなマニーシャの感覚はマインドからの脱同一化のプロセスを表しています。

心が静まった時、心の水面は鏡の様に景色を映し出し、常に見守り続ける観照者があらわれます。それがミニ悟りです。あるがままに思考全体を見守り続けている観照者が思考を超えた自己です。しかし、そこには観察するものと観察されるものという微妙な二元性が残っています。そして観照にとどまることで非二元にくつろぎます。

物心がついてから今日までの間、絶え間なく浮かんでは消えている思考を自分と思い込んでいます。それに疑いをもちません。しかし、本当の私は思考を超えて見ている意識なのです。思考を自覚する純粋な意識が本当の私なのです。

「観照する者は存在せず、観照のみが存在する。意識のみが存在し、それは人格も伴わないし形も持たない。そこに在るのは、どこからともなく現れ、どこへともなく消える炎のような気づきだ。消えてしまうまでの間だけ、あなたはその炎を見る……。あなたがいなくなる瞬間、観照は純粋なものとなり、この観照が途方もない祝福をもたらしうる」「この観照こそ仏陀だ」OSHO

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考えた瞬間
泡のように
思考が現れて
次の瞬間消えています。
体から感覚が生じては消えています。
まるで川の流れに浮かぶ泡のように

全ての出来事は現れては消えています。
すべての出来事は沈黙の中で起きています。

人々の意識にゆらぎが起きています。
意識のマトリックスの転換が進んで、
自分の思考を自覚することができる
観照の眼を持った人々が増え続けています。
やがて加速がついてその人数が社会を変えることができる臨界値を超えるでしょう。
その時、地球は新しい時代を迎えます。
2018/08/22

自己の本質

「ペインボディ」という言葉を使う人がいました。これは、ボディワークの元祖ライヒの性格の鎧(character armor)や、セラピーでよく使われるインナーチャイルドである抑圧された古いネガティブな感情の集まりのことでそれをエックハルト・トールが独自の表現で「ペインボディ」と表現したものです。

ペインボディが使われているのはエックハルト・トールの影響を受けている人が増えているからだと思います。エックハルト・トールの良い所は難しい専門用語が少ないことだと思います。

『思考を客観的にながめていると、その行為をしている「ほんとうの自分」の存在に気づきます。』エックハルト・トール

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『出来事は人を不幸にすることはできません。人間を不幸にしているのは、自分自身の思考なのです。あなたを不幸にしているのは、出来事に対するあなたの「解釈」、あなたが自分に話し聞かせている「わたしの物語」なのです。』エックハルト・トール(さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる)

私にとってエックハルト・トールは仏教と同じことを言っているように思えるのですが、仏教は仏教特有の言葉が多いので日常生活になじみのない仏教の話は難解に聞こえるようです。

チベット仏教では日常の思考する心を「セム」といい、それとは別な純粋意識を「リクパ」と言って区別しています。幸福と不幸、清浄と不浄、善と悪、愉快と不愉快という二元性に分離した思考は「セム」なのです。そして「リクパ」は永遠に空であって、常に清浄です。
鏡はすべてのものを映し出しますが、どんな像が鏡に映し出されても鏡自体が汚れることはありません。この汚れることがない心の本性が「リクパ」なのです。

リクパは秘密集会タントラに「土台として本来そなわっている光明としての心」として出て来ます。覚醒している光明の心が本当の自分なのです。その状態がダルマカーヤ(法身)です。

自分自身を観察して自己の真の本質がリクパであることを悟ることがチベット仏教の最終目的となっています。
チベット仏教は段階を追って進む道でもあります。戒律を守って静かな心の境地に入る最初の道、次に空性を理解するタントラの道があります。

9 世紀以降に発展した後期密教はタントラ仏教(Tantric Buddhism )と呼ばれています。タントラは次の四つの種類があります。
①所作タントラ②行タントラ③瑜伽タントラ④無上瑜伽タントラです。①~③は空海が日本に持ち帰った密教です。
④の無上瑜伽タントラはインドで最後に発展したので、チベットには伝わりましたが日本には伝わりませんでした。

無上瑜伽タントラには「ヘーヴアジラタントラ」を教典とする母タントラと『秘密集会タントラ」を教典とする父タントラがあってその二つを統合したタントラを不二タントラといいます。不二タントラは「時輪タントラ」を教典としています。
タントラではエネルギーを扱います。

エネルギーを知らなければ私たちは心に怒りが湧いてきたときに怒りを止めたり避けようとします。しかしタントラはそのエネルギーをよく知っているのでそれを止めたり抑圧したりせずに活用するのです。 それを可能にするのがタントラの修行です。
このタントラ修行の最後の段階「あるがままで完全な境地」をカギュ派はマハムドラー、ゲルク派はゾクリム、ニンマ派はゾクチェンと呼んでいます。

「マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて」
「ゆったりと自然なる境地にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん」
「与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし」
(「マハムドラーの詩」より抜粋)
チベットでは教えを伝授する教師(ラマ)が大切にされています。

しかし、あるがままで完全なリクパの境地を説明し、それを理解させようとする教師はいますがそれを直接与えることができる教師はどこにもいません。今までもいませんでしたが、これからも出てくることはないでしょう。

教師は自己の本性を理解するための方法しか与えることができないのです。
それは教えを授かる方のカルマに関わっています。

光明はもともと人の本質に備わっているので、あらゆるものは、あるがままで最初から完璧なので変えたり取り除いたりするものは何一つないことをチベットで「クンツゥ・サン」と呼んでいます。

寂静な心の境地の中にとどまる瞑想をシネーといいます。しかし思考のない三昧の状態は眠っている状態と同じなのです。瞑想をやめると静寂は失われます。

そこで思考や感情などのエネルギーが動いている状態とリクパの境地が一体となることをゾクチェンは求めます。

覚醒していても覚醒していなくともリクパは誰の心にも最初からあります。

しかし、わかっていない人には、自己の本性であるリクパと自覚されずに思考で理解したリクパの二つになっています。どちらのリクパも一つですが、最終的にリクパは心の中で再統合されなければなりません。それをマハムドラーでは「母と子の光明の再統合」の言葉で表現しています。

「はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海となり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ」
(マハムドラーの詩)

タントラの最終段階ではさまざなエネルギーが湧き上がる中にとどまりながらリラックスして、あるがままの境地を保ち続けるのです。
ゾクチェンでは 一切はすでに成就しているので努力の病を捨て去り、そのままで完全な境の中にとどまりなさいと教えます。
ゾクチェンの無努力の教えを言葉だけで理解すると「すでに自分は悟ってしまったので、心の浄化や瞑想は必要がない」と思い込んでしまう人が出てきます。
人に迷惑をかけて犯罪行為に手を染めても、わたしは完全だ。何も問題はないと自分を欺いてしまうのです。
ここでは詳しく述べませんが、その危険性は昔から指摘されていました。
しかし、同時に自己の本性を知ってしまえば瞑想の方法を借りる必要がないことも確かなのです。
タントラの最終段階に入る前に無意識の浄化と思考を観察する瞑想が必要だと私は思います。

「私はあるがままで完璧だ」
「私は完全な存在なので瞑想もワークも必要がなく、何一つ変える必要はない。」
とそう自分に言い聞かせて、思い込むことはできます。

マインドは本を読んだり話を聞いただけでわかったつもりになりになります。わたしのマインドも同じです。今ここにいられないマインドが本性を捉えることはできないのです。

分離した自我をかかえたままがほとんどなので、(光明を得た完璧な人間像は頭で理想化して作り上げられた概念だと思います。)無意識の底に潜むトラウマが浮上して必ず悩まされます。

自分は完全だと強く思いこむ人ほど抑圧は強まるので、ごまかしても、痛み止めが切れると再び痛くなるように、あとで、ひどく落ち込むことになります。

よく裏話を耳にしますがスピリチュアルな教師にシャドウーが濃い人が多いのも事実でしょう。自分の無意識を浄化しないで教師になって教祖になる例は多く、教祖になってしまうと誰かの生徒になって自分を浄化する機会を失ってしまうようです。
いくら「宇宙は愛と光で満ちている」「私は完璧だ」と自分を正当化しても抑圧したエネルギーは無意識にそのまま残されます。
しかし、自分自身の問題との直面をさけ現実と向き合うことの逃避に使われてしまうと、あるがままの自分を見ないで自我を強化し防衛してしまうのです。

わたしたちは完全な存在ですが、それを思考でとらえることはできないのです。
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