2016/10/21

「君の名は」日本人の無意識と共鳴する

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友人の強いおすすめにより「君の名は」を見てきた。

まず主人公の宮永三葉(ミツハ)の名前は古事記の弥都波能売神(みづはのめのかみ)『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)がモデルだろうと思わせる。

ミヅハノメは泉などの水の出始めを表す水の女神である。そして落下する彗星の名前のティアマトはシュメールの水の女神である。シュメールの太陽系神話ではニビルの衛星とティアマトが衝突してティアマトは二つに分かれ、その内の一つは粉々になり小惑星帯となり、もう一つは地球と月になった。監督はゼカリア・シッチンの「謎の惑星ニビル」から着想を得たのだろう。もう一人の主人公の名前が男子高校生の「立花瀧(タキ)」でどちらも水に関係している。

消えたミツハの故郷は監督の故郷に近い諏訪湖がモデルといわれている。ミツハは神社の娘で映画で巫女舞を踊るが、それは新海監督の出身地、長野県の佐久市にある新海三社(しんかいさんしゃ)神社の巫女舞の浦安の舞そのままである。

新海三社神社では年に一度映画にでてくる口噛み酒を奉納する儀式が行われているという。お酒を作る職人を杜氏(とうじ、とじ)と呼ぶが元は女性の尊称を表すトベからきていた。古代日本のリーダーは女性でトベという尊称で呼ばれていた。ミツハのお父さんが神社の婿養子なのは古代の母系社会を思わせる。

ミツハの実家、宮水神社のご神体は磐座である。磐座で主人公の立花瀧(タキ)は口噛み酒を飲み次元を超える体験をする。日本の神体山の山頂には必ず磐座がある。古事記でイザナギとイザナミはこの世とあの世の境にある千曳岩を挟んで会話した。死者と生者の間の通信装置が磐座だった。古代の神事は磐座で舞う祭儀を執り行い神々とつながるのである。

大空から星が三つに分かれて落ちた伝説がある大阪交野の星田妙見宮を白鳥さんに案内していただいたことがある。妙見山には織女石(おりめいし)という磐座があり、星田妙見宮の祭神は牽牛・織女の二神である。天の川が流れる星田の里には天女である七曜の星の一つが地上に降り羽衣を隠され天に帰れず妻となり、その子が部族の長となる七星型羽衣伝説がある。この地は古代物部氏が支配していた。星田には物部氏の祖神ニギハヤヒを祀る磐船神社が鎮座している。

君の名の男女が入れ替わるストーリーはすぐに平安時代後期に成立した物語を思い来させた。やっぱり劇場パンフレットに「とりかへばや」をモチーフにしたとある。

ユング心理学では男性の中に現れる女性像をアニマ、女性の中に現れる男性像をアニムスという。

アニメーションの語源はラテン語で霊魂を意味するアニマに由来し生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味する。巨石や巨木、泉や山に精霊が宿るとする信仰はアニミズムと呼ばれているがアニマからきている。石が神の依代としてそこに神が顕現するのである。

男性性と女性性はバランスが取れることで全体性が保たれるが、映画では男性的傾向が強い女性の奥寺ミキが主人公のタキに入れ替わったミツハの女性性に惹かれるというエピソードがでてくる。

男性性は分離、独立し、女性性は一つに融合、調和する。

現代の理論物理学は複数の宇宙の存在を仮定している。泡のように多数存在する並行宇宙の集団が,もっと大きな「マルチバース(多宇宙)」を形作る構造になっている。並行宇宙同士は相互に影響しあい関係している。

この映画では時間が過去現在未来と一直線に流れない。映画の重要な言葉が「組紐」に出てくるムスビである。「よりあつまって形を作り、人をつなげることも、糸をつなげることもムスビ。捻れて絡まって、 ときには戻って、途切れ、またつながることもムスビ。時間が流れることもすべてムスビ」は非物質的な微細な世界サトルの領域を表している。非物質的な領域の時間と空間はねじれている。

「ムスビ」つまり「むすひ」は結ぶこと男性性と女性性が一つになることを意味している。ムスヒがついた日本神話の神様の名前タカムスヒ、カミムスヒは陰陽和合の象徴になっている。

そして映画にでてくる究極の問いが『あなたは誰だ。』である。

人間の魂は本来、神の世界に属しているが肉体に閉じ込められ、本来の神性を忘れて眠っている。しかし、儀式や啓示によって自分自身の本質に気づくことで、肉体の囚われから解放される。転生輪廻の苦しみから解放された魂は物質的な肉体から自由になって神と融合する。それまで魂はマトリックスの中で深い眠りに陥って自分が誰であるか忘れている。それが密議宗教の基本構造である。

自分が何者かの問いが起きるのは目が覚めた時に意識と肉体が分離していることに気がついた時である。大いなる全体から分離していることに気がつくと全体を求めて魂の探求の旅が始まる。囚われから離れて目覚めると陰陽のエネルギーは螺旋状に上昇し一つになる。それが神聖結婚である。

主人公のミツハとタキは時間と空間という次元を超えて影響しあい結ばれるという魂の旅のストーリーになっている。誰もがミツハとタキであり記憶を失った状態で魂の旅をしている。

映画では最後に二人は四谷の須賀神社で出会う。須賀神社の祭神はスサノオである。出雲の須賀の地にある須我神社は「日本初之宮(にほんはつのみや)とよばれスサノオとクシナダヒメが結ばれた地であり奥宮には磐座がある。日本の国の始まりは大陸からやってきた渡来人であるスサノオが母系の先住民クシナダヒメの婿養子になったことを示唆する。終わりは始まりである。

「君の名は」は日本人の無意識に潜む「象徴」「比喩」「暗示」が重層的に含まれている作品だった。

写真は黄昏時の諏訪湖
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2016/10/14

褌(ふんどし)

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日本に古くから伝わる伝統の下着が「褌(ふんどし)」です。

天然繊維だとなんともないのに化学繊維だと触れた皮膚が赤くなったり、ちくちくとかゆくなったり、かぶれや湿疹の症状が現れる人がいます。化学繊維には加工の段階でホルムアルデヒドなどのいろいろな薬品が使用されているのでそれがアレルギーを誘発しているではないかと言われています。今の繊維は化学薬品の固まりなんです。化学繊維はプラスイオンが発生してパンツが帯電状態になります。化学繊維のパンツはむれやすいのです。

高温多湿で汗をかきやすい日本には褌が気候風土に合っています。男性の陰嚢(いんのう)には睾丸の温度を下げるために表面積を大きくして冷却効果をあげる多くの皺(しわ)とヒダがあります。男性の更年期障害には、睾丸をしめつけない越中ふんどしが最適といわれています。

越中褌の紐を締める結び目は臍下丹田にあたり、経穴でいうと気海(きかい)穴になります。気海とは元気、腎の精気の集まるところを意味し免疫力や精神力を鼓舞してくれます。

褌を締めると気海穴を刺激して気力が充実しやる気がでてくるんです。丹田は動きの中心にあたります。

下丹田が充実していないとやる気が出てこないのです。褌は下丹田を養い腰が安定します。

日本と西洋では上半身と下半身に身体感覚を置く文化の違いがあります。日本人は腹を締め西洋人はネクタイで首を締めます。


整体の野口晴哉先生はお尻の穴を触る事で、その人の決心の度合いが違うと言っていました。決心しましたといっても肛門に指がズボッと入るようだとその人は実行できません。いくら口先で「やります。やります。」とその人がうまいこといっても丹田が充実していないと、体にその覚悟が出来ていないという事になります。丹田が弱いと頭でやらなくちゃいけないと考えてばかりでいつまでたっても実行出来ないのです。


褌を締めることで頭に上がった気を丹田に下げて、プロジェクトをやり遂げます。それが「褌をしめてかかれ」です。また、「ふんどしを締め直す」ことで新たな気持ちで物事に取り組むことができます。

そんな理屈はともかく、天然素材の褌を一度しめたらもういけません。パンツなど、ものすごく気持ち悪くて、はけなくなってしまいまました。
2016/10/12

神遊び

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先日、行われた早池峰夜神楽にいってきた。古代の人々は神が顕現する場所にしめ縄をはり供え物をして感謝の祈りを捧げた。神楽も神様を迎える場所に神の依代である神籬(ひもろぎ)を立ててそこで舞う。以前に神楽を舞っているお年寄りから神楽は「神遊びだ」と聞いたことがある。


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山の幸や畑の豊作を祈願する「シヌグ遊び」「海神祭(ウンジャミ)」などの行事の神踊りを沖縄では「遊びピラモト神」や「縄遊び」と呼び昔は単に「あしび(遊び)」といった。
沖縄の「あしび(遊び)」とは祭りの場の呪術的な歌舞のことを指していた。
巫女の巫という字は天と地をつなぐ中心のまわりで踊る人を表している。
神歌を歌いながら円陣を踊るうちに巫女はトランス状態に入り神になるのである。
久高島のイザイホーの巫女の歌舞もすべて「遊び」と称していた。
アメノワカヒコが高天原の神々の命令に背いたので矢で射殺される神話がある。アメノワカヒコの妻子家族は八日八夜歌舞飲食をして遊んだと古事記に出てくる。古代には遊部という役所もあった。


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魂を慰め霊を弔うことが鎮魂と解釈されているが本来の鎮魂は「ツミ」「ケガレ(穢れ)」を払い魂を再生させることだった。
遊びは魂を失って病的な状態にある者に元気を吹き込んで魂を再生させることにある。それが古代の鎮魂法だった。
神遊びといえばインド哲学のリーラという言葉が浮かぶ。この世は神が作ったマーヤー(幻影)でありそこに神自身が降り立ち、遊ぶことを「リーラ」と呼んだ。
神はこの「マーヤー」で遊ぶために記憶をたち自分で自分が神であることを忘れた。その記憶喪失の神を人間という。
困難なことがあるとつい深刻になってしまうがこの世のすべてはリーラ(神の遊び)なのである。
2016/10/12

無責任体制に陥る日本

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東京都の豊洲問題が連日話題になっています。しかし、誰の責任なのか全く見えてきません。日本社会は中央に権威は置いても権力は置かない構造になっているのでしばしば無責任体制に陥ることがあるのです。原発事故も豊洲問題も個人が表に出てきません。

戦争中の日米の組織を比較するとアメリカは状況が最優先で、組織でも何でも、状況に応じて一人ひとりに絶大な権限が集まるようにつくっていきます。
日本の組織は責任分散型で一人だけに大きな権力が集中するのを避けて、何人かのトップが談合で決めるというやり方をしました。明治憲法で軍隊は天皇に属するとされましたが天皇がトップとなって実際に軍隊を動かすことはありませんでした。

日清、日露などの戦争の時の日本の軍隊は陸軍と海軍の参謀総長、軍令部総長、参謀次長、軍令部次長、第一部長、作戦部長、作戦課長によって構成された大本営会議が統帥権を持ち全面的に作戦を仕切って戦争がすすめられていました。統帥権とは最高指揮権のことですが日本は個人が権力を持たない構造になっていました。
個人が責任をとらない無責任社会は、ある特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになります。

政治学者の丸山真男は無限責任の例として1923年に起きた難波大助に狙撃された裕仁皇親王(昭和天皇)暗殺未遂事件を取り上げています。この皇太子暗殺未遂事件後、総理大臣の山本権兵衛は辞任、内閣は総辞職、警視総監と警視庁警務部長が懲戒免職、警護のかかわっていた一般の警察官まで免職。犯人の出身地の山口県知事と、犯人が上京の途中で立ち寄った京都府の知事も譴責処分、郷里の村は正月の行事を中止、犯人のでた小学校の校長と担任は辞職、衆議院議員であった犯人の父は蟄居し半年後に餓死しました。

無限責任は最近でも現役の野球部員のたった1人の違法行為の責任として野球部全体が甲子園出場辞退という習慣に引き継がれています。

日本は父性が強くなっても心理的に母性優位の国でした。個性や自己主張よりも全体との調和や平衡状態の維持の方が重要なのです。

太平洋戦争末期、戦果を挙げることに固守した日本軍は敗北が決定してもずるずると戦争を長引かせて無謀な戦闘を続けました。無責任体制 の日本は一旦始めた戦争を終わらせるリーダーがいなかったのです。結局、多くの国民の命が犠牲となって失われました。

頂点の地位にいる天皇は、象徴的な権威だけで実質的な権力を持っていませんでした。
そして行政を担当する官僚は、短期間で交代してしまいます。永続的にその業務に対して責任を持つ個人が存在しません。
つまり、日本は命令を下す決定権を持っている個人も責任をとる個人もいないのです。

こうして日本は責任をとる個人が存在しないまま、集団による、責任の不明確な傾向に従って行動して失敗します。
そうして、失敗をしても、その失敗の原因を究明して責任者を明らかにしないので、同様のパターンを何度も繰り返すのです。
2016/10/12

麻のドリームキャッチャー

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辰巳さんからご縁をいただいた神戸の佐々木真紀さんから麻糸でつくった麻の葉柄のドリームキャッチャーを送っていただきました。

アメリカインディアンのオジブワ族に伝わるお守りですがそれが麻でできているのです。

日本の神道は大麻と切り離すことができません。神道儀式は、大麻がないと成り立たちませんでした。昔から麻は穢れを祓う力があると信じられていたので伊勢神宮の御祓大麻( おはらいたいま )は何百万枚も配布されています。

神社でお祓いをする祓串(はらえぐし)に使われているのも大麻です。神社で鈴を鳴らしますがその「鈴緒(すずのお)」の縄も大麻です。社殿のない場所で祭儀を行うときの神籬(ひもろぎ)は榊(さかき)に折った紙を垂らす紙垂(かみしで)に麻をつけたものでした。

島根県松江市の八重垣神社は観光客で賑わっていますが昔の名前はアオハタサクサヒコ(青幡佐久佐彦命)を祀る佐久佐神社といっていました。アオハタサクサヒコ(青幡佐久佐彦命)は出雲風土記に麻を蒔いた神として出てきます。八重垣神社の場所は昔、大草の郷と呼ばれて麻が沢山茂っていたのです。麻は大切な植物でした。

日本全国いたるところで麻が植えられていました。大麻はあらゆるところで使われていたので日本人の生活の中に溶け込んでいました。

ところが戦後、突然GHQの指導で大麻取締法という法律が出来てから大麻は麻薬として取り締まりの対象になってしまいました。麻糸の技術をもっていたお年寄りも次々と他界して麻の伝統技術は壊滅状態になってしまいました。麻が手に入りにくくなったのでかわりにビニールが使われている神社も多いのです。

風前の灯火のような日本の麻文化の状況ですがバランスを取り戻すかのように麻に関心を持つ人々が増えてきています。私もカミさんが縫ってくれた手作りの麻のふんどしを締めています。麻のふんどしを締めるとパンツは気持ち悪くてはけなくなりました。
2016/10/12

透明な光のエネルギーと一つになる

私のセッションでクンダリニー覚醒がおきたのが当時ニューヨークに滞在していたMicaです。

彼女はもともとサイキック能力を持っていたのでニューヨークでは芸能人にも知られていた有名なサイキック・セラピストでした。

当時の彼女が関わっていたのが「がんは誰が治すのか」の著者でがん患者だった元コロンビア大学ガン研究センターの松野哲也教授でした。

Micaは松野教授の左足裏が、健康的な右側に比べて、弱々しく萎縮していることを指摘しました。それは物事を分析的にみる左脳の活動だけを優先する傾向を示し、右脳によって物事を無意識的に生き生きと捉えるはたらきが弱かったのです。

松野教授は快復にとっていちばん重要だったことはMicaといろいろな話をすることによって、自分がいかに思い込みのパターンに囚われていたかに気づき、それをじっと観察することができたことだと言っています。

松野教授はそれまでガンのような病気は、薬を使って、肉体という物質レベルでのみ治すものだとばかり思い込んでいました。
松野教授はものの考え方を転換し、自分で調製したプロポリス抽出液を飲み、呼吸法や身体の動きに注意を向けることで、癌を克服したのです。

Micaはある日、ニューヨークから盛岡に住んでいる私の前に突然姿を現しました。それまで全く面識はありませんでした。そして個人セッションはないのかというのです。個人セッションがあることさえ知らずに受けたのです。彼女は持ち前の能力で直感的に今の自分に友邦のセッションが必要だと感じたのでしょう。

そして、そのセッションはクンダニー・エネルギーが上昇する驚くべきものでした。


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人間は肉体の他に目に見えないエネルギーの体を持っています。そのエネルギーの中枢をチャクラと呼んでいます。チャクラはサンスクリット語で光の輪という意味ですがチャクラは肉体にエネルギーの供給をする働きをしています。

東洋医学では気血といって物質的な血液だけでなく生命を動かすエネルギーである気が充実していなければ病になるとされています。

チャクラの機能が低下するとそのチャクラからエネルギーの供給を受けている臓器も低下してやがて物質的な領域で病が生じます。

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エドガーケイシー(1877 - 1945)はリーデングで「生命は自己を複製する能力をもっており、体内の電子エネルギーが不足すると物質的存在の維持と複製能力に必要な均衡状態が再生できなくなる。」と述べており、これはシェーンハイマー(1898 - 1941)が発見した生命は動的な平衡な状態にあるという現代の分子生物学の見解と同じことを語っています。http://www.seibutsushi.net/blog/2013/12/1450.html

人間の体を構成している物質は複製と合成と分解がたえまなく繰り返され時間が経つと身体の物質は蓄えられることなくすべて入れ替わってしまいます。太っている人の脂肪もすべて入れ替わり実際は脂肪が溜まっていないのです。

つまり川の流れのように秩序を保ったダイナミックな流れそのものが生命なのです。

分子生物学はどのように流れを維持しているかということに物質的なレベルで答えることはできてもその秩序を維持している根本の力は何かということに答えることはできません。それは非物質的な領域にあるからです。



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ャクラは心や意識などの目に見えない身体の階層構造と結びついています。悟りや意識の覚醒などの上位ばかり開発しても感情や知性や意志のセンターに制限やブロックがあるとそのレベルに引き戻されてしまいます。

下位のチャクラを飛ばして上位のチャクラを開発をしない方が良いのは、なにか能力を得ようとする時は劣等感を解消しようとする動機がひそんでいるので分離していた自我の影、恐怖という否定的な暗黒のエネルギーに取り込まれてしまう危険性があるからです。

一旦退行してしまうと水平に移動するだけで再び上昇(アセンション)するのは難しくなります。

霊能力が欲しい。ヒーリング能力が欲しい。超能力が欲しいと次々とセミナーを渡り歩く人は能力を得る前に浄化が必要でしょう。

意識の成長に重要なのは怒り、恐れ、悲しみの浄化です。これらは肉体と非物質的な身体の境界が融合して生の全体性を取り戻すこと、つまり透明な光のエネルギーと一つになるプロセスに欠かせません。

意識の成長は浄化と超越の両方が必要なのです。

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今の人類は光り輝く宝石の都市という意味の三番目のチャクラ「マニプーラチャクラ」の時代にいます。行き場のないエネルギーが人々のみぞおちの辺りで渦巻いています。

第三チャクラにブロックがあると人に支配されやすくなるだけでなく、第三チャクラのエネルギーの変換がうまくいかないと暴力に変わり、人を支配して世界を焼く尽くそうとします。あくなき権力志向、支配と征服欲で満ちている人類の状態はこの第3チャクラ段階にあるといえるでしょう。

第三チャクラの火のエネルギーが活性化して、すべてを燃やし尽くすとブロックは消え去り第四のチャクラに向かってエネルギーは螺旋状に上昇します。地球はこれから闘争と破壊による火の浄化を経て、第四の愛のチャクラが開花していくように見えます。



武器の輸出と軍事費の増大。 食料自給率の低下と食料危機。 富と権力がごく一部のものにますます集中している不満が民衆に高まっています。過激なイスラム原理主義の台頭や暴力による対立の激化。環境の悪化そして経済の崩壊 、世界の危機は頂点に達しようとしています。

教育、医療、経済、政治から親子で殺しあう一般家庭まであらゆる階層で機能不全が起きています。奪い合いと搾取という古い意識の体制そのものが現代社会のあらゆるシステムの破錠をまねいています。今までの古い意識から脱皮して、目覚めた新しい人間の意識へ進化する時期に来ています。意識の成長・進化は自然なプロセスなのです。

かつてはヒマラヤ聖者やキリスト教神秘家だけのものだったと思われていた意識の成長、進化が地球に住むあらゆる人々に起きようとしています。

怒りや憎しみを他人に投影して行動せず、攻撃的なエネルギーを生命力に変換出来る人々が増えて、それがある臨界値に達したとき人類の意識は根本的に変容するでしょう。成熟した社会への道は個人の意識の成長・進化と切り離せません。怒りのエネルギーを誤用すれば破壊をもたらしますがそれに気づけば再生をもたらすでしょう。

ほとんどの人は自分が持っている可能性に気がついていません。

2016/10/08

マインドを見ている私

鎌倉ユニティで個人セッションを受けたえつこさんより以下の感想をいただきました。

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はじまる前に、セッションの内容について約1時間ほどの説明がありました。
こんなことが起きるかもしれない、こうなった場合はこうしてください、などなど…。
あらかじめ展開が予想できたのはよかったですが、「へー。そんなこと、あるのかな?」とひとごとのように聞いていました。
…が、セッションがはじまると、実際にそんなことばかりがあったのです。衝撃でした。
最初は、本当に手がしびれてきました。けっこう強いしびれだったのでびっくりしました。(説明通りでした。)
そして、呼吸なので、「それなら私もだいじょうぶ」と思っていたのですが、これも大間違いでした。
呼吸が、…できないのです。(説明通りでした。)
誘導してもらうのですが、「できません~」「痛い~」と、こころの中で叫んでいました。
これまで自分では出来ていると思っていた呼吸は、実のところ私の人生のクセが表われていたことがわかりました。
音楽がこれまたすごくて、私の内側の感情に伴うように、絶妙なタイミングで流れてきます。もうその頃は、睡眠状態のような、なのに意識はしっかりしていて、不思議感覚のまっただ中でした。
ほどなくして呼吸ができるようになった頃、ツーッと涙が流れてきました。(説明通りでした。なにがあってもそのままにしておくように、と。)
そのときに、まっくらな闇がやってきました。
でも、寒くて暗い闇ではなくて、どこかあたたかな闇でした。
「源」を思い出して、「…帰りたい」。そう思いました。
どこに帰るって、それは「死」のような世界だったのかもしれません。
意識だけが存在する...。
自分が死ぬときって、こんな風になるのかもしれないです。疑似体験でした。
としばらくしたら、明るい光がぱーっと射してきました。
母のお腹のなかに帰ったのです。それはまだ産まれる前の、とてもしあわせな空間でした。(このあとの自分の人生から、出産後のサバイバルがはじまったんですね。)
一瞬にして「生」と「死」を体験しましたが、どちらもとても平和でした。
そして、母に「産んでくれてありがとう。」という感謝の想いがやってきました。
それだけでもインナーチャイルドは癒されたと思いますが、ほどなく足にエネルギーを感じました。
私は普段足を感じることがあまりないので、「生きていることへの感謝」へとつながりました。
そうしているうちに、頭へもエネルギーが湧いてきて、あっと云う間に全身がエネルギーで充電されました。
これが、案内にあった「身体にエネルギーが充電されるようになるので元気になるでしょう。」のことですね。
そして、今回最大の恩恵だと思ったのが、
①マインドがちいさくなって、
②それを見ている私がいました。
まずマインドについてですが、普段はボリューム8ぐらいに感じるマインドのおしゃべりの割合が、ボリューム2ぐらいになったのです。

別にマインドがなくなった訳ではないのですが、量がすこしになって、その分「何もないスペース」が広がりました。意識が拡大したみたいです。
これが、瞑想で云うところ
の「マインドはあっていいのです。」の境地だと実感しました。
そして、そのちいさなボリューム2のマインドが小声であれこれ言っているのは聞こえてくるのですが、そこに振り回されないで、どこか遠くからそれを見ているような自分がいました。
これが、「観照」と云うものかもしれないし、幽体離脱しているような気すらしました。(これまでそんな経験はいっさいなしです。)

そして、「あれ?今日の私、「マインド」と「フィーリング」と「身体」の3つが同時に働いていることを体感している。」って。それもやはり遠くから見て、気づいていたのですよ。
私、特別な才能もないふつうの人間です。すごくないですか?
友邦さんの著書「覚醒の真実」に「覚醒は特別なことではない」とあるのですが、こんな風にある日私にも覚醒なるものが訪れました。
http://ameblo.jp/nobara-rose/entry-12206429115.html より
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