2018/04/10

神事芸能の始まり



沖縄本島東方海上の久高島では、12年に一度、島の三十歳以上の既婚女性が巫女になるイザイホーとよぶ儀礼を行なっていました。

女性たちは円陣を組んで、両手を前に合わせたりおろしたりしながら、神さまに捧げる神歌を歌いながら旋回の踊りを繰り返して巫女になりました。

歌い踊る、神事のすべてを「遊び」といっています。神霊を身体に依り憑かせることを「遊び」といったのです。

それはタマとむすんで神霊と一体となる魂振りという呪術的行為のことでした。

久高島の最後の神女(かみおんな)と呼ばれた内間カナさんは次のように証言しています。

「昔はさぁ、私の頭の上に神さまが降りてきてくださったものですよ。男の人の相談の時には男の神さまが、女の人の相談には女の神さまが来ていろいろ教えてくれたのさぁ。でも今はもう誰も頭の上にいない。だから私は赤ちゃんのようになってしまっているのさぁ」

古い巫女舞の所作は旋回運動をします。巫女が旋回しながらシャーマン意識状態に入って先祖の大地母神や大祖母の霊であるタマとむすぶことが芸能の始まりでした。

それらは神事芸能として歩き巫女としての遊女や傀儡、白拍子となりました。

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「阿知女作法(あちめさほう)」という海の底深くにいる阿曇磯良(あづみのいそら)の神に呼びかける宮廷に古くから伝わる御神楽(みかぐら)の歌があります。

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)お~けー(一度)の呪文を挟んで次のように最初に歌われます。
「あめつちに きゆらかすは さゆらかす かみわかも かみこそは きねきこう きゆらならは」

最後の方に
「みたまみに いまししかみは いまそきませる たまはこもちてさりくるみたま たまかへしすなや」
と九つ歌われ呪文が繰り返されて終わります。

阿曇磯良(あづみのいそら)は志賀の皇神(すめがみ)として博多湾の志賀海神社の御神幸祭で磯良(いそら)の舞が奉納されています。


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阿曇(安曇)氏は神武天皇の母の玉依姫を先祖としていました。阿曇は阿知女(あちめ)であり皇神(すめがみ)でした。女神だったのです。

志賀海神社には神楽の舞におびき寄せられた阿曇磯良(あづみのいそら)が海底の竜宮城から現れて潮の干満を操る霊力を持つ秘宝の珠を献上して神功皇后は新羅を討つことに成功したという伝承が伝わっています。

阿曇(安曇)氏は磐井の乱のあと北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に四散しました。

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志賀海神社の磯良(いそら)の舞は傀儡舞として宇佐八幡宮の神事芸能として八幡信仰と共に全国に広がっていきました。それが春日若宮のおん祭や、祇園御霊会で演じられ、宮中にも取り入れられて、神楽の元祖となったと言われています。

磯良(いそら)神は傀儡・遊女が祀る百太夫・白太夫の神として西日本各地の神社の末社として祀られています。それは八幡神に服属して生き延びた海人族の隼人の姿でもありました。

鎌倉時代までの傀儡・白拍子・遊女の社会的地位は低くなく課役・交通税を免除されて諸国を遍歴し、芸能を通じて聖なる神々に奉仕する祭祀集団でした。戦乱が起きた南北朝以降女性の地位は低下していったのです。

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志賀海神社
所在地:〒811-0323 福岡県福岡市東区志賀島877
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2018/04/10

神事芸能集団傀儡

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以前に神戸女子大学名誉教授の鈴鹿千代乃先生から昭和初期まで筑紫(九州の北半分)を本拠地とした芸能集団「くぐつ」の一大ネットワークがあったことをお聞きしたことがあり、大変驚いたことがあります。

傀儡(クグツ)族が残したといわれる筑紫舞は跳躍や旋回の多いのが特徴です。日本舞踊にはない「ルソン足」「鳥飛び」「波足」「水けり」「砂けり」など海辺にまつわる海女族の伝承を思わせる名のついた足使いがありました。

昭和十一年の秋、舞人が十三人集まり古代の石室で一人の少女の前で不思議な舞を舞いました。それは昭和に入り「くぐつ」の芸の伝承者が少なくなってしまった筑紫舞の奥儀を伝える最後のイニシエーションでした。その石室は先日訪れた宮地嶽古墳(みやじだけこふん)でした。

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不幸な悲劇的な生涯を送った皇子や皇女の物語を伝える「語り舞」というのがあります。

「男女の恋でも、成就した話は、舞って語り伝える必要はない。それは単なる色恋にすぎない。結ばれなかった恋を舞って、死後は離れ離れにしないで下さいと神に祈る、舞って語ることによって後世の人々に『ああ、こういう恋もあったのか』と思ってもらうことが、その人々をおなぐさめすることになる。」菊邑検校(筑紫舞伝承者)

「語り舞」は魂をなぐさめる「鎮魂」の舞でもありました。

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筑紫舞が伝える七福神は世にいう福の神とは全く異なる不幸を背負わされた神でした。 

傀儡が伝える七福神は皆、人々の苦しみを背負わされて不完全な不具の姿をした神でした。

鈴鹿先生は次のように述べています。『不完全なるものに神性を見る思想は世界的にある。日本にも、近世までは、不具の子が生まれると、その子は、家を栄えさせる“福子”として皆で大切に守り育てた。
神から授かった子、神から選ばれた子として共同体がその子を大切にすることで、その共同体に福がもたらされる。芸能を演ずることで、共同体の罪、穢れを自ら背負い、さすらいという生活を余儀なくされた彼等の生み出した神々の姿であった。 
こうした伝承は、傀儡子が独自の神話体系を確立していたことを語っている。』

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筑紫舞は二百数十曲伝えられていますが、舞の種類は大きく神舞(かんまい)・巫女舞(きねまい)といった神に捧げる神舞と、 くぐつ舞という祭礼の時に人々に見せる舞とに分けられます。くぐつ舞は全ての所作が「祓え」としての意味を持ち、体を極限まで駆使して舞うことによって全身で人々の穢れを引き受けました。

そして、その穢れは人知れずに舞う神舞(かんまい)で神様にお渡して祓ったのです。

筑紫舞は日本神道の神事である禊祓いを行う真性の神事芸能だったのです。

踊りは身体言語ともいうべき非言語コミュニケーションの手段です。舞は言葉によって伝えられない情報を伝えることができました。巫女舞や神楽や傀儡舞は自然と一つになって平和に暮らしていた神話時代の神々の姿を今に伝えるものなのです。

神事芸能研究会
http://shinji-geinoh.sakura.ne.jp/acces.html

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2018/04/10

傀儡舞と放生会

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宇佐神宮の発祥と関係が深いのが和間神社です。
和間神社は全国各地で行われる放生会(ほうじょう え)の発祥の地です。
放生会(ほうじょう え)は隼人の反乱が鎮圧された後に宇佐に疫病や凶作などが続いたので隼人の祟りを鎮めるために744年、和間の浮殿で傀儡子舞を奉納しニナ貝(蜷貝)を海に放したことが始まりとされています。


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宇佐神宮の最古の祭祀儀礼、放生会(ほうじょう え)は初日の10日に宇佐神宮から八幡大神が神輿に乗って海上から和間神社の浮殿に向かって傀儡子の舞を奉納して最終日の12日に宇佐神宮へ戻ります。
江戸時代に中止となり現在、傀儡子の舞と神相撲は古要神社が3年に1度、古表神社は4年に一度奉納されています。
隼人は薩摩隼人、日向隼人、大隅隼人と土地の名がつけられています。隼人は中央主権を作らない部族連合だったので大和政権に鎮圧されてしまいました。

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隼人は農耕を営んでいた弥生の風俗とは異なり、顔に顔料を塗り、竹細工が得意で相撲や舞踏を好んでいたようです。
九州には、おおわたつみ族(海人族・あづみ族)というまつろわぬ部族がいました。おおわたつみ族海幸彦の末裔が隼人でした。
隼人は服従し宮中で隼人舞と隼人相撲を演じたと言います。そうして、隼人の服属儀礼が芸能として八幡信仰と結びつき傀儡子などの芸能集団になったのではないかと思います。

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2018/04/10

沖ノ島はなぜ女人禁制となったのか



世界遺産となった「宗像・沖ノ島と関連遺産群」

その沖ノ島は「一木一草足りとも持ち出してはならぬ」という掟のおかげで古代の祭祀がそのまま保存されていました。

その祭祀遺跡は1岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)2岩陰祭祀(5世紀後半~7世紀)3半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半~8世紀前半) 4露天祭祀(8世紀~. 9世紀末)の四段階に分かれます。

1岩上祭祀は古代に磐座の上で魂振りなどの呪術行為を女性が祭主となって神がかりをしていたことを表しています。

2岩陰祭祀の時代になると農具や工具などの実用品や呪術的な玉飾りや銅鏡が少なくなり、馬具やミニチュアの祭器が多くなります。

3半岩陰・半露天祭祀の時代は磐座祭祀から離れて露天露天祭祀へ以降する中間に当たり祭祀のために作られたミニチュアの祭器や土器が多くをしめるようになります。

4露天祭祀の時代になると平地に方形の祭壇を設けて祭事をしたようです。出土した祭祀品は今までの祭祀品よりも圧倒的に多く、律令制度が整い祭儀は分業化され形式的になり物を主体にした祭事が多数行われ事を物語っています。


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これは三輪山などの神体山で最初に磐座(いわくら)・磐境(いわさか)を祭場とする信仰の後、山の頂上にあった山宮(やまのみや)の神を、山裾の里宮(さとのいみや)に移して祭儀をおこなうようになった経過と符合します。

縄文はあらゆるものに精霊が宿る自然崇拝の時代でした。村落が形成されると弥生の祖霊信仰に変わり、そして中央集権が進み勢力を拡大した部族の氏神を国家の神として祀る皇祖崇拝へのプロセスでもありました。右脳優位から左脳優位に移り変わっていったのです。

古代の信仰を残していた琉球では、神に仕えるのは女性とされていたので、祭祀をおこなう聖地の御嶽(うたき)への男性の立ち入りは禁止されていました。

例外とされた琉球国王でさえ、聖域内に入る際には女性用の衣装に着替えたと伝えられています。

これと似たような説話が日本書紀の神代記に出てきます。「お前を斎主として、女性らしく厳姫(いつ姫)と名付けよう」と神武天皇が男性の道臣(大伴氏の先祖)に語る場面があります。

古来から呪術能力があるのは子を宿す女性という信仰が強かったので祭祀を行う男性に女性の名前をつけたのです。

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古代では女性が宗教的な権威をもち男性が政治をおこなうかたちをとっていました。

しかし、古墳時代を過ぎて律令制度が確立されると宗教儀式を司る専門職が細分化されて神主、宮司、物忌、女禰宜(めねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)、祝(はふり)、陰陽師、検校(けんぎょう)、権検校と多数の神職が作られ女性の地位は低下しました。

神々の声を託宣する巫女は力を徐々に失い、やがて男性の司祭による組織的な宗教行事が執り行われるようになりました。

定住農耕社会になり政治が統合され王があらわれるとシャーマンは呪術師と呪医、占い師、祭司と分業化されて脱魂型のシャーマンはみられなくなりました。

中央集権国家は勝手に神がかりして秩序を乱す巫女を嫌いました。明治政府の原動力になった長州藩の国学者岡熊臣は神懸かりをする女性の巫(めかんなぎ)男性の覡(おかんなぎ)を嫌悪し、神職と区別して巫覡(ふげき)を処罰の対象としました。

長州藩は国学者の意見に同調して皇祖からはずれた2万の祠や道祖神、石仏が淫祠として撤去されました。

これが明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と小集落ごとにあった7万社の神社が合祀廃社された神社合祀令の前触れとなりました。

明治以降、女性は神職と切り離され補佐役の舞女、巫女として男性の下におかれました。男性原理は分離して女性原理は融合します。

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男性原理が強くなると、女性は穢れた存在と見なされるようになり、神聖な場所への女性の立ち入りが止されるようになったのです。

沖ノ島や相撲などの女人禁制は男性原理の優位がもたらしたものでした。