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2018/05/08

「遊女(あそびめ)」舞と踊り 6

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古代は鎮魂祭を遊びといい禊祓いを執り行う巫女のことを遊女(あそびめ)といっていました。
現在では遊女といえば売春婦と同意語になっていますが実体は神社や寺社で神事芸能を演じる傀儡たちのことでした。奈良時代に万葉集で詠まれた遊行女婦(うかれめ)の遊行とは浮かれ騒ぐことではなく、諸国を歩いて芸能を演じる女性集団のことで売春を伴うことはありませんでした。


平安時代中期に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると芸能を生業としたのは遊女で夜を待ちて淫売をするのは夜発といいました。
春をひさぐ女性が増えてきたのは嫁取り婚が出てきた平安時代の中期ごろからです。母系から父系に変わり婿取婚から嫁取り婚になり男性が経済的な支配を強めると女性の経済的自立は弱まってきたのです。
一夫一妻制が定着して自由な男女間の関係性が失われると婚姻の外に性の捌け口を求める男性が現れました。暮らしのために性を売る女が増えてくるとやがて遊郭が現れて経済的に自立できない女性たちは大規模な売春組織に飲み込まれて行ったのです。

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古代の母系社会は母から娘へ財産が受け継がれたので女性は経済的に自立できたのです。暮らしのために性を売る女性はいませんでした。結婚制度がなく男性は子供の養育義務がないので、男女が自由に別れることに経済的な抵抗がありませんでした。
そして、古代には相互に求愛の歌謡を掛け合う歌垣(うたがき)という男女が出会うことができる祭があったので、誰もが容易に相手を見つけて変えることができました。万葉集で「歌垣の日は昔から神に許されている日なので他の誰と通じても咎められることはない」と歌われています。
好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた縄文時代は自由恋愛だったので売春がなかったのです。
2018/05/08

「白拍子」 舞と踊り 5」

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平安時代末期から鎌倉時代にかけて白拍子と呼ばれた男装の舞妓がいました。
平家物語の平清盛の寵愛を受けた祇王祇女と仏御前、源義経と連れそった静御前は特に有名です。
後鳥羽法皇が抱えていた白拍子亀菊は親鸞・法然が流罪になる原因を起こしたり、亀菊に所領として与えた地頭を罷免するように後鳥羽法皇が鎌倉幕府に要求したことで、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力の争い「承久の変」が起きています。
白拍子とは旋律とリズムの拍子のことで白拍子は神事として使われていました。
100日の日照りの時に神泉苑で白拍子が雨乞いの舞を舞うと雨音が大きく響いて三日間も続く雨が降ったという説話があるように、白拍子は神事芸能の傀儡をルーツにしていました。
天皇家の「遊部(あそびべ)」は葬式の時に刀を負い矛を持った女の禰義(ねぎ)と刀を背負って酒食を持った女の余此(よし)が呪文を唱えて棺を周っていました。のちに刀と矛は女に向かないといって夫に変わる話が伝わっています。
「大山寺縁起」には白拍子という遊女がいたが不浄があるので追放したという記述があります。平安鎌倉と時代の経過に従って神事から女性は追放され男性が独占するようになったのです。


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こうして、神事から追放された女性の中には共同体を作り、定住して仕事に就かず山から山へ芸能をしながら漂白の旅を続けた人たちもいたようです。
それでも遊女、傀儡、白拍子たちは教養が高く公家の家に出入りしては即興で和歌を詠んで和歌集に入るものもいました。
更科日記には足柄山を通過した時に遊女の歌を聞いて感動した話が出てきます。月もなく暗い夜に身なりも小綺麗にした15と20、50ばかりの美しい3人の遊女が現れて、唐傘をさして、火を灯し、美しい声で上手に歌ったので、人々はたいそう感動してもてはやしました。歌い終わった遊女たちが暗くて怖い山の中に帰ってゆく光景をいつまでも見送ったのでした。「こはた」という遊女の孫だと名乗っているので、遊女たちが母親から娘へと受け継がれる母系だったということがわかります。
2018/05/08

「ヒルコとえびす」舞と踊り 4

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平安時代後期の公卿、大江匡房(おおえまさふさ)によると男女の芸能集団が傀儡で女性だけの芸能集団を遊女と呼んだようです。白拍子、歩き巫女、傀儡が信仰する神は百太夫でした。

宇佐神宮の末社の百太夫は隼人族が捕虜となって斬首された霊を祀る首塚に建てられていました。

傀儡たちが信仰する百太夫神は八幡信仰の広がりとともに西日本に広がって行きました。

石清水八幡宮にも住吉大社と広田神社にも末社として百太夫社があったことが書かれています。広田神社の末社だった西宮神社は現在ではえびす神社の総本社として本社を凌ぐ賑わいを見せています。

西宮神社の傀儡子たちが「えびす廻し」「えびすかき」と呼ばれる「えびす舞」を全国各地で公演する事で、えびす神は各地に普及しました。

西宮神社では「蛭子祭」と綴ってエビス祭りと読ませているように「えびす神社」の主な主祭神にヒルコとオオクニとコトシロヌシが祀られています。

イザナギとイザナミが最初に産んだ子がヒルコです。しかしヒルコは不完全だったので海へ流されてしまいました。

祝詞の後半で浅瀬にいる禍津日神(まがつひのかみ)=瀬織津姫がこの世のあらゆる罪穢れを引き受けて大海原に持ち去っていくと語られています。

これは海に流されたヒルコの話と同じです。

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海に没した隼人を供養するように八幡神が宣託して傀儡たちの放生会が始まった事とヒルコが重なります。また海中の石となった和多都美(ワタツミ)神社の御神体「いそらえびす」は八幡縁起で語られる海中の石舞台となった海人族の祖、阿曇磯良(あずみの いそら)=百太夫神と同じです。

出雲族のコトシロヌシもまた国譲りの後、海の彼方に去っています。

ヒルコが不完全だった理由が女性のイザナミが声をかけたからだとされているのは男性原理が優位になる前の母系の先住民、海人族のことにも思えます。

ここでヒルコ=えびす=いそらが繋がります。海に流されたヒルコは母系の先住民わたつみ族のことを表していました。

ヒルメを先祖とする天孫族に国を譲ってヒルコを先祖とするわたつみ族は海中に没して精霊となったのでした。

罪、穢れを背負ったヒルコは海に流して祀ることで、罪が祓われ人々に福がもたらされました。

傀儡たちは祭礼の時に「えびす舞(傀儡舞)」を舞うことで人々の穢れを引き受け、それを神に捧げる舞で神様にお渡して、罪穢れを祓ったのです。
2018/05/08

歩き巫女 舞と踊り 3



身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。平安時代の書物に巫女がしばしば登場します。
その中に信仰の伝道師として各地を旅から旅へと歩き回る歩き巫女がいました。
古代は禊祓いの鎮魂儀礼のことを「遊び」といいました。
万葉集では遊行女婦(うかれめ)と呼ばれ、、傀儡女(くぐつめ)や白拍子(しらびょうし)とも呼ばれています。
のちに遊女(あそびめ)は売春婦の意味になってしまいましたが、遊女(あそびめ)は旅をして神事芸能を披露する女性たちのことで、平安の頃には天皇や貴族たちの席で即興で歌を詠んだり舞を舞ったりしていました。
後白河法皇は、遊女・傀儡女・ 白拍子などを御所に呼び寄せて今様(平安時代の歌)を吟じ、歌いすぎて喉を痛めるほど芸能好きでした。
ついには70歳を超える傀儡女・乙前(おとまえ)を歌の師と仰ぎ御所に住まわせています。乙前(おとまえ)がこの世を去ると後白河法皇は命日にいつも歌を謠って傀儡女を弔ったと伝えられています。
傀儡女たちの共同体は母系相続だったようです。



日本書紀に中臣烏賊津(なかとみいかつ)が神託を判断する審神者(サニワ)となり武内宿禰が琴を奏でる中で神功皇后が神がかる話が出てきます。
古代の神がかりは琴師と審神者(サニワ)と巫女の組み合わせで行われていました。それは春日大社の囃子の役を持つ神楽男と琴師と舞を舞う巫女で行われる神楽の構成に現れています。
歩き巫女の中に各地を放浪して梓弓の弦を響かせて神降ろしをする「梓巫女( あずさみこ)」がいます。
古代ギリシャでは音楽を使い宇宙の音と共鳴させて分離していた心身が全体とひとつになるイニシエーションをしていました。竪琴の名手オルペウスは生きながら黄泉の国と人間界を自由に行き来き出来ました。
宇宙は音で出来ています。その音と共鳴する事によって自我の境界を超えた無限の存在である事を知るのがナーダ・ヨガ(音のヨガ)です。
先住民の世界には音楽や踊りでトランス状態に入り、日常意識を超えた精霊と情報を交換するシャーマニズムの文化がありました。
物事に優劣のランクをつけている自我は境界線という障害を作ってエネルギーの流れを阻害します。
自分と他者を切り離して見ている間は分離があるので葛藤がやむことがありません。
自我という境界がなくなり融合が起こると
時間と空間を超えた
無限の沈黙と静寂に気がつきます。
過去も未来もなく永遠の今だけがあります。
境界がなく、分け隔てがありませんので
それを無条件の愛と言ってもいいと思います。
自我の境界を超えて宇宙意識と融合した芸能の名手は古来からいたと思います。
2018/05/08

舞と踊り 2 「巫女」

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縄文から弥生そして古墳時代のヤマト王権が成立以前の先住民に出雲族・海人族がいました。その痕跡は地下水脈のように神事芸能の舞の中に残されていました。

九州の志賀海神社・宮地嶽古墳・宇佐神宮・和間神社を訪ねたことで傀儡ことが明らかになってきました。奈良時代の神仏混合により全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されました。そして、八幡神信仰の広がりと共に傀儡舞が禊や祓いの神事芸能として伝播・保存されるようになったのです。

身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。平安時代の書物に巫女がしばしば登場します。

平将門が新皇と称することも巫女の託宣によっています。鎌倉の鶴ケ岡八幡宮でも神楽のあと八幡大菩薩の託宣を巫女が頼朝のころ鎌倉幕府にしています。中世の時代は皇族・公家から武士、知識階級である高僧に到るまで吉凶の判断を行う巫女の託宣を信じていました。

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神仏混合の巫女は神社も仏教のお寺にもいて巫女が舞、男神子が囃子を担当して祈祷や吉凶を占う神子集団を形成して収益をあげていました。

能楽の「葵の上」のように山伏と巫女がペアを組み、巫女が霊をおろして、山伏が加持祈祷で追い払うということも行われていたようです。

しかし、分配されていた収益は利権化が進み特定の男神子が主導権を握るようになり、息子に世襲化されるようになりました。

神仏習合の霊地は女人禁制となり神楽も男性だけが踊るようになったのです。男性が女の面をつけて踊るのは女性が祭祀の主導権を握っていた時代の痕跡でした。
2018/05/08

「舞と踊り 」1 男性の祭司へ




古代において、女性は神聖な存在でした。
大和朝廷樹立以前の古代の女性は神の声を聞き、託宣を行なう女性リーダーでした。
神事芸能の祖はアメ(アマ)ノウズメ(天宇受賣命、天鈿女命)と言われています。アメノウズメが天の窟戸の前 での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らし、鉾で槽を衝いて神懸りする所作は、 宮中祭祀の「鎮魂祭」で「猿女君(さるめのきみ)」に受け継がれました。
神楽では大地を踏む所作を反閇(へんばい)と言います。反閇は《翁》《三番叟》《道成寺》などの猿楽、相撲の四股、歌舞伎の六方に見られます。
反閇は邪気や悪霊を祓って土地を清める呪法という説明が一般的ですが、巫女は舞を舞うことでシャーマン意識状態に入り、そして、神がかりした時の跳躍が反閇となったのです。
閉じていた下のチャクラが解放されたときの状態が反閇になったのです。
旋回しながら舞をしていると大地から螺旋状にエネルギーが上昇して来ます。
そのエネルギーは恐怖を伴うことがありますが、恐れずに虚空に明け渡しをすることで、人は自我を超えた神となるのです。
「舞の心構えとは、物に拘泥せず、人の目を気にせず、心のうちにいっさいの思いが浮かんでこない無心無想の状態にあって謡と舞、体と心とがひとつに集中されたまま、楽の音にのせて舞うのである」金春禅竹
鎮魂法で旋回運動を「まい」といい、跳躍運動が「をどり」で、その神事を「遊び」と言いました。
遊部 ( アソビベ )という鎮魂の神事を司る役職は女性の比自岐和気 ( ヒジキワケ )が代々受け持っていましたが、のちに、神事の役職は女性にはふさわしくないとされて、その家系の女性を娶った男性の円目王(つぶらめおう)が行なうようになりました。
婚姻が母系から父系に変わり祭司長が女性から男性に変わったのです。

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律令制が輸入されると巫女は正式の官職ではなくなり、宮廷神祇官の男性神職の下にされてしまいました。
天の窟戸の前での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らした故事は鎮魂祭の「宇気槽(うけふね)の儀」として七世紀の天武朝で儀式化され、十世紀の平安中期に編纂された『延喜式』では神職の数や行事作法が細かく制定されて形式的になり、十五世紀半ばには宮廷の鎮魂祭儀は完全に廃れてしまいました。
女性シャーマンから男性の祭司へ、アメノウズメから猿女君へと引き継がれた神事芸能が女面をつけた男性による舞手になり、社寺や霊場、祭場などへ女人が禁制となって修行が男性主体となった事は女性原理から男性原理が優位になったことを意味しています。
2018/05/08

女性の財産権 「結婚について その5」




地域集団が父系の原理に基づいている社会では嫁に来た女性は「よそ者」でした。自分の生家の親兄弟や親戚との結びつきの方が強く、他の親族集団への帰属意識が弱いので、嫁は子供ができるまでは、夫の氏族の一員とみなされませんでした。
平安末から鎌倉初頭は荘園を支配する女性の領主や風早禅尼深妙という女地頭もいました。財産の相続権や所領の知行権が妻にも与えられていたので、夫の死亡後に家督財産をうけついだ女御家人もいました。
母系と父系が混在するようになると女性の財産の帰属について問題が生じるようになりました。女子に所領を与えてのち、婿家の夫が敵になることもありました。
女子は武人としての奉公ができないので、元寇の頃から西国の御家人に対して女子への財産譲与を禁止する法令が出されています。
妻の不貞は厳罰に処せられ、夫の死後においても貞操を要求し、再婚するのは貞操心を忘れた不届きのことだから、その時は亡夫から譲得の所領を亡夫の子息に返すべきだと定められています。そして、妻にのみ貞操を要求しながら夫は妾を盛んに囲っていました。
公家たちは婿取婚を保っていましたが、鎌倉から室町時代は婿取婚から嫁取婚に変わる過度期にあたり、武家たちは部下や弱隣の武家に対して略奪、召上、進上等の嫁取り婚を要求していました。

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応仁の乱以降、相次ぐ戦乱により社会の秩序は乱れて殺伐となり、女性を路上で奪う乱暴なことが天下御免のこととして頻繁に行われるようになりました。女捕り、辻取り、拐かし(かどわかし)などと呼ばれていました。
鎌倉末期ごろから正式な婚姻関係から生まれた嫡出(ちゃくしゅつ)にのみ全財産を相続させる方法が現れ室町時代以降には一子相続が一般的慣行となり、女子の財産権消失と同時に女人禁制が現れ女性の社会的地位は急速に衰退していったのです。
2018/05/08

家に縛り付けられる女性 「結婚について その4」




縄文時代の男女間は好きな時に一緒になり、嫌になれば離れるのが自由でした。
中央集権が進み律令体制が整えられたのが八世紀です。儒教の影響下にあった中国の制度をそのまま取り入れたのです。人口の増加をはかるために早婚を奨励した年齢がそのまま日本に持ちこまれ、結婚年齢は男子15歳、女子13歳でした。
妻は家に縛り付けられ妻の財産も含めて全ての財産は夫の所有となりました。結婚は家父長が絶対の権限を持ち許可のない自由な結婚は認められませんでした。離婚の請求権は妻になく、女子を産んでも男子を埋めない女性は石女と軽蔑され離婚の対象となりました。

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宮中に住み天皇の寝所にはべる婦人を女御(にょうご)と言いました。女御(にょうご)は名門の貴族から選ばれました。
しかし、歳若いうちから自分から望んだわけではなく父の命令によって天皇の女御(にょうご)なった女性は短命でした。天皇の周りには他の名門貴族から政略により送られた、たくさんの女性がいて、表に出すことの無い、怒り、悲しみ、嫉妬、不満、憎悪が渦巻いていました。
醍醐天皇の女御(にょうご)から白河天皇までの100年くらいの間の女御(にょうご)は15歳から27歳くらいで早死にしています。
藤原道長の六女東宮女御嬉子は18歳で後冷泉天皇を産みますが難産の後2日後に亡くなりました。あらゆる咒、祈祷、真言宗の最高の儀式とされている宮中御修法も読経も甲斐なく息を引き取ったと言います。狂った『もののけ』に取り憑かれて死んだことになっています。
鉛の入った化粧と厚着をして室内の中ばかりいてたいした運動もせず、楽しむことがない生活は精神的にも肉体的にも健康に良いわけがありません。
年若くして結婚、出産に伴う病気で亡くなる女御は多かったようです。
ただ庶民の世界では妻問いが平安時代まで行われていました。
2018/05/08

母系から父系へ 「結婚について 3」

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律令制が確立してからの系譜は全て男系で統一されています。
大化の改新の時の右大臣の名前は蘇我倉山田石川麻呂といいます。蘇我は父系の苗字で麻呂が名前です。倉と山田と石川のいずれかは母方の性と見られています。
実際には奈良・平安時代の子どもは母方の家で育てられる妻問婚が行われていました。
昭和30年代まで妻問婚の名残が行われていたという報告もあります。飛騨高山の伝統的民家には夜に訪れる男性の為の屋根裏部屋への出入り口があるそうです。
平安時代の中頃から男性が女性の元へ通う妻問婚から婿が住み込みで妻の家に同居する婿取婚へ変化していきます。
優秀な男手が欲しい母系の家では夜に通ってきた男の現場を3日目に取り押さえて無理やり餅を食べさせる三日餅という儀式を行いました。女性の家族の一員となる儀式が済むと男性は夜に通う事をやめて公然と出入りして住み着つきました。
これによって男女の関係は自由恋愛ではなくなり、母方の家の父親の意向が強くなり、親の権限による結婚が行われるようになったのです。
婿が妻の家に住む様になると婿の生活費は全て母方の実家が持ち、父方の実家の扶養義務は10世紀頃までありませんでした。
子供は父方の姓を名乗っても母系家族によって養育されました。この時代の結婚とは基本的に婿入りであり、息子はいずれ他家に住み込むものなので家は娘に譲られるのが普通でした。
武家社会の到来によって惣領制という家族制度が起こってきました。その家の正妻が産んだ長男が財産を一人で相続するようになったのです。
妻に対する貞操観念が強くなり、夫方の家に縛られるようになりました。
儒教的な観念において結婚は男子を産むことが最優先であり子孫を残さないことは不幸の最も最たるものでした。その為に女性は子供を産む道具にしか過ぎず、子供を産めない妻は離縁されました。
結婚の決定権は家に握られ、自由恋愛は礼節にふさわしくありませんでした。
武士の時代が終わると明治政府は家父長制を法律で定めました。
「結婚する前は父親に従うべき、結婚したら夫に従うべきで、夫がなくなったら息子に従うべき」と女性は一方的な服従を求められました。
長男が絶対的な権威を持ち、家族に対する統率と財産の管理をして女性は男性に恭順・服従するように強要されるようになったのです。
2018/05/08

通い婚から婿取り婚へ 結婚について その2



蘇我氏と藤原氏は天皇の外戚になる事で権力を握っていました。自分の娘を天皇の後宮に入れて、いかに早く自分の娘が皇太子を産むかが権力の座につく条件でした。

藤原道長は自分の娘を次々と後宮に入れて、長女は一条天皇の中宮(天皇の妻)、次女は三条天皇の中宮、三女が後一条天皇の中宮になる事で最高権力者となりました。

六女は後朱雀天皇の東宮妃になっていますので藤原道長は四人の娘全てを天皇家の妃にしたのです。

その当時の婚姻は通い婚と呼ばれていて母系社会の影響を受けていました。

母親から生まれた子供は母親の家で育てられました。天皇家も同様でした。

藤原道長の父藤原兼家(929年〜990年)の周りには6人の身分の高い貴族の娘がいました。しかし、どの女性とも一緒に生活はしていませんでした。兼家は自分の生まれた家で暮らしていたのです。

しかし、息子の時代になると藤原道長は左大臣・源雅信の娘がいる土御門邸に住み着いています。 

藤原道長の義父の源雅信も、土御門中納言藤原朝忠の娘と一緒になり土御門邸を譲り受けて住みついていたのです。

平安の中期になると通い婚から婿取り婚になっていきました。

母系の時代は母から娘へ財産が受け継がれていました。その名残が通い婚という形で平安時代まで残っていました。

男女の関係は本人同士の純粋な恋愛関係でした。男は遠い夜道を通って女性の家に通い一番鶏がなく前に生まれた家に帰ってゆく通い婚でした。

気持ちが離れれば男は通わなくなり、女も気持ちがさめると男を家に入れませんでした。

男女間に経済の結びつきはなく、生活は別々でした。子供に父親という概念はなく時々母のところに姿を見せる男でしかなかったのです。

毎日顔をあわせる母方の祖父や母親の兄弟である叔父さんとの関係性の方がはるかに深かったのです。これが外戚一族が政治権力を握った背景でした。

写真は国東半島 海に突き出てる粟嶋神社
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