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2018/08/31

縄文は富を独り占めしない



古代の人々は大自然が持つ不思議な生命力を畏怖して精霊に贈り物をする儀礼をしました。そうしないと不幸がおとずれると信じていました。
アイヌの熊送りは人間が熊の姿をして土産をもって現れたので、殺して熊の姿から霊を解放してたくさんの土産を持たして天の世界に帰します。そうして待遇がよかったことを仲間の熊が聞き来年も土産をもって再び人間の世界を訪れるのです。土産(ミヤゲ)は「身をあげる」という意味から来てると梅原猛は述べています。



北米インディアンは近隣の人々を招いて蓄積してきた富を惜しみなくふるまうポトラッチ(potlatch)という祝宴を開きます。主催者は贈り物を気前よく贈り、客は受け取り、今度は別な機会にお返しをします。
もし、それをおこたり、自分の利益だけを溜め込むと力を失い自分の魂も失ってしまうのです。先住民は富の蓄積に魂の危険を感じていたのです。

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狩猟から農業に移り変わり、富の蓄積が起きて支配階級が現れると、豊かな富を求めて凶暴で暴力的な男性原理の人々が現れはじめて侵略を始めるようになりました。
貨幣経済は貧富の差をもたらし、争いをもたらしました。お金のために長時間労働で拘束されるようなり、幸福で自由な時間は失われるようになったのです。
富と資源の奪い合いにより生存競争は激しくなり生は危険なものになりました。
アメリカ・インディアンはこう言っています。
「欲しいと言ってくれれば持っているものはいくらでもあげるのに、白人達はなぜ、銃で殺して奪うのか」

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縄文時代は富を独り占めにせず困っている人には誰でも平等に分け与える心を持っていました。

縄文の香りが残る岩手の山間部では見知らぬ旅人をもてなす習慣がありました。
40年以上前に、旅の途中で暗くなり北上山地で出会った見知らぬ人の家に泊まり、夕飯をごちそうになったことがあります。おそらく、昔はコンビニも宿も交通機関もなかったので見放させば旅人は困り行き倒れになったこともあったからだとおもいます。
縄文の人々も大陸から渡って来た人々に食べ物を与え受け入れていったと思います。
縄文は野蛮で未発達な文明ではなく、循環する優れた技術や豊かな精神世界を持つ、持続可能な平和な社会でした。

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アメリカ先住民は自分達の行いのために子孫に負債を背負わせてはならないと7世代先の子孫のことを考えて暮らしてきました。
現代文明は目先の経済のために危険な放射能を垂れ流し、未来の子供達に数万年も残る放射能廃棄物を押し付けています。
縄文は一万年以上争いのない社会を築いていました。
現代社会は物質文明であり、格差で苦しみ争いが絶えないので精神的には野蛮な文明と言わざるをえないでしょう。
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2018/08/31

ドリームタイム(夢見)




オーストラリアの先住民の言葉にドリームタイム(夢見)という言葉があります。
あらゆる植物、動物達、死者や先祖、地上から姿を消したすべての魂は時空を超えたドリームタイムで夢見ています。全ての命はドリームタイムから種子として大地に宿り、そこから地上にすべての命がたち現れて来ます。
これから地上に現れて来る魂も地上から姿を消したすべての魂も、時空を超えた夢見とよばれるドリームタイムの中で溶け合って今も生きているのです。

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夏が終わり植物が枯れて朽ち果てると、死をイメージする冬がやって来ます。そして、春には再び新芽がふき、植物はよみがえります。
古代の人々は、死と再生を繰り返す、大地の女神に畏怖の念を持ち、豊穣の祭儀をおこない、豊かな実りを祈りました。
古代の人々はまた、死者はこの世に戻ってくることができ、夢や啓示で生者と語り合うことができると考えていました。
祭儀を通して死者にふさわしい敬意を払い、そして、あの世に帰って新しい神となった死者に、今度は生者のほうが導いてもらうというわけです。

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縄文時代は先祖の墓を中心に同心円状に集落が形成されていました。神話世界は、生と死が循環していて終わりがありません。
縄文は現代の様に生と死を分けてはいなかったのです。縄文と弥生の移行期は集落の境に墓地が作られるようになり、弥生時代は村から離れた山の裾野などに作られました。生者と死者の世界を分けるようになったのです。
現代社会は時間が過去、現在、未来に流れていく直線的な世界で死は終わりを意味します。
縄文土器に蛇のモチーフが現れますが、蛇は脱皮することから死と再生の象徴になっています。
また蛇は強い生命力を持つことからエネルギーも表しています。
純粋なエネルギーである蛇が目覚めると自我の牢獄に閉じ込められている意識が解放されドリームタイムへの回帰がはじまります。
2018/08/31

7世代に及ぶ未来の子供たちに



アメリカインディアンは自分達の行いのために子孫に負債を背負わせてはならないと
7世代先の子孫のことを考えて暮らしてきました。

私たちの社会は
「自分さえよければ誰が苦しもうが関係ない」という病的なエゴが
生命全体の循環を壊し、あらゆる人々を苦悩に導いています。

放射能汚染で無人となった町は地域のコミュニティーが崩壊しました。
無人の町ではお金をえるための働く場所も使うお店もありません。
原発は街の経済を根底から崩壊させました。
原発マネーは偽りの経済でした。
しかし事故が起きる前にそれに気づくのは難しかったのです。

私たちの頭には物質的な快楽やお金の価値が何よりも優先されると完全に刷り込まれていたからです。
放射能汚染で使われなくなった原発交付金の建物が
原発の豊かさが虚構の豊かさだったことを教えてくれています。

原発を安全だと言っていた
原発企業も政治家も官僚も大学の教授も、
やがて大地に帰って消えてしまいます。
そして、未来の子供達に
数万年消えない放射能に汚染された海と
放射能廃棄物が大地が残されます。

放射能は右翼も左翼も宗教も人種も国境も関係ありません。
放射能はイデオロギーを超えてあらゆるものを汚染します。

私たちは頭の中の思考を自分と思い込み、
環境破壊を続け
母なる地球に依存していることを忘れています。
理性中心の科学合理的な思考をするようになって
左脳優位になり、全体との繋がりが見えなくなってしまったのです。

お金や経済というマーヤに騙され、
すっかり本当の自分が誰かを忘れてしまっています。

豊かな森と大地
汚染されない水と空気
親しい友達や家族とつながり
今ここに存在していること
これだけで十分幸せなのです。

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人生の困難や苦悩は深い気づきが起きて、その人を成熟に導く機会となります。
最悪の事態は最良の効果をもたらし、苦悩が深い人ほど振り子の針は逆に振れ目覚めが起きます。
これから物質的な豊かさだけを豊かだと思っていた時代は終わりをつげるでしょう。
持続可能な社会を
7世代に及ぶ未来の子供たちに
2018/08/31

自然治癒の先駆者、寺山心一翁先生

末期がんから生還された自然治癒の先駆者、寺山心一翁先生の講演会が26日花巻で行われます。82歳になられますが、ますます素晴らしい光を放っています。
アリゾナ大学医学部教授アンドルー・ワイル博士が著書「癒す心、治る力」角川文庫72ページに寺山先生のガンが自然に治癒して消えていく様子を紹介しています。寺山先生はアリゾナ大学医学部で講演もしています。

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寺山先生は48歳の時に右腎臓ガンになりました。 死を覚悟した夜に臨死体験の状況を夢に見てから 嗅覚が異常に高まり、 病室の臭いに耐えられず、消灯後の病室のベッドから抜け出し病院の屋上に寝ていた所、病院の関係者に見つかりました。そして、自殺の恐れがあるとの理由で、病院を退院させられてしまいました。
生きていることを確認する為に自宅のマンションの屋上に昇り日の出を眺めていたところ、まばゆい光が全身を貫きました。生命エネルギーが流れたのです。


寺山先生は科学的な考え方の訓練をして来た科学者でした。当時の日本のトップクラスの半導体の研究者でした。
ところが寺山先生のクンダリニーが上がってチャクラが開くと、寺山先生自身がオーラを見えるようになってしまいました。
そうなると寺山先生はオーラやチャクラが胡散臭いとか科学で証明しなくちゃいけないということがアホらしく思うようになってしまいました。
その当時の様子を次のように語っています。

「生きていることだけで幸せでした。太陽が神にみえましたよ。部屋にもどったら、家族全員のまわりにオーラがみえるようになっていました。だれもが神なんだって思いましたね」

そして先生が毎日太陽に向かって感謝の挨拶をしているときに 突然、宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ」が口から出てきたのです。
その中で「欲ハナク、決シテ瞋ラズ、イツモシズカニワラッテヰル」のところで涙がとめどなく出てきて、私がガンを創ったのだということをはっきりと認識したそうです。

そしてガンに対して自分で作つた子供だという気持ちが湧き起こり、「愛しているよ」と愛を送り始めましたら、痛みが減少して鎮痛剤を使用しないでも眠ることが出来るようになり、やがてガンは小さくなり始めたのです。

「おかげで、自分のなかにも、まわりにも、自然治癒力があるということに気がつくようになったんです。そしてだんだん、がんをつくったのは自分自身だったんだということに気づきはじめました。

わたしが、自分のふるまいによって、がんをつくったんです。そのことに気づくと、自分のがんを愛さなければならない、敵として攻撃してはならない、ということがわかってきました。がんはわたしの一部であり、わたしは自分のすべてを愛さなければならなかったんです」寺山心一翁(アンドルー・ワイル 「癒す心、治る力」角川文庫)

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寺山先生の人生は私たち人類の行く末とシンクロしています。寺山先生が右腎臓ガンになった状態が今の私たちの人類の状態です。
まだ地球環境が崩壊しているということを知らされていない人が大勢います。当時の寺山先生はガンだと知らされなかったそうです。
これから寺山先生が臨死体験の夢を見たように地球に住む様々な人々が地球環境崩壊のビジョンを見て「私がこの状態を創ったのだ」ということをはっきりと認識する人が増えてきます。

自我は一つの世界に境界線を引いて分離させます。そして体と心、他者と自分を切り離し、対立と争いを続けてきました。
寺山先生はガンをきっかけに「欲ハナク、決シテイカラズラズ、イツモシズカニワラッテヰル」境地にたどり着きました。

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世界との一体感を内面で体験した人は、自然に敬意を持つようになり、攻撃性が低下し、性別、人種、考えの違いに寛容になります。
すべてのものは相互に依存していて、世界はあらゆるものが因果で結びついています。
世界が一つだと気がつくと自我が作り上げた偽りの境界線は消えます。
愛に境界線はありません。
寺山先生はがんを愛するようになりました。
そして、寺山先生のガンは自然に消えたのです。

寺山先生の人生に転機が訪れたように人類も大転換の時代を迎えています。
「ガンはありがたい贈り物です。ガンは新しいあなたに、新しい命につうじている道なんです」寺山心一翁


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◉10月6日(土)~10月8日(祝・月)寺山心一翁 & 清水友邦 早池峰ワークショップ

ハートの扉を開く ~愛の癒しと意識の変容~

日本で最も古い4億年以上前の蛇紋岩の地層で成り立つ聖地中の聖地、早池峰山麓で2泊3日のワークショップを開催します。
末期がんから生還された自然治癒の先駆者で、82歳になられる寺山心一翁先生と早池峰でお会いする素晴らしいチャンスです。ぜひ、素晴らしい光を受け取って周りの人々に光を放ってください。

美味しい早池峰の伏流水を飲み、やえはた自然農園さんの食材を使った料理を食べて体を癒し、大自然の中で体を動かして緊張をほぐし、そしてハートから愛のエネルギーが皆さんに流れることで心の扉が開いて、本当の自分に気がついていくことでしょう。
◉日時:10月6日(土)~10月8日(祝・月)
15時スタート~午後1時解散

◉ワークショップの内容

◎聖なる歌とダンス 考えることから感じることへやさしく誘導します。
◎チェロの演奏 チェロの心地よい響きが全身に響いて微細な身体が活性化します。
◎野外でのワーク  都会では味わえない大自然の中のワークで身体感覚が目覚めます。
◎チャクラワーク 制限しているチャクラを解放させて、潜在能力を開花させていきます。
◎呼吸法 心の扉を開く呼吸法
◎瞑想法 今ここにいる瞑想
◎レクチャー  意識の成長について実生活で役に立つポイントを解説します。
◎シェアリング  ワークでご自分が感じた事気づいた事を話して分かち合う時間は成長するきっかけになります。
主催 寺山心一翁オフィス

詳細
https://www.facebook.com/events/1840753949294866/
2018/08/31

賢治の『ほんたうのしあわせ』



宮澤賢治が生まれる2ヶ月前の明治29年6月15日に東北では死者1万8158人をだした三陸大津波が発生しています。
賢治が生まれた5日後の8月31日には陸羽大地震 があって岩手の水田は亀裂・陥没で稲の成熟が遅れ田畑とも収穫が半分になりました。
その後も岩手は凶作が続き明治35年は米の収穫が三割 明治38年は米の収穫が半分まで落ち込んでいます。
明治末から大正初期の東北農村は、日露戦争による増税と凶作によって非常に疲弊していて、それにたびたび天災による凶作に襲われていました。
そのような時代に賢治はこの世に誕生したのです。

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賢治の母方の祖父宮澤善治は雑貨商で巨万の富を築いていました。賢治の父親の家は古着と質屋をしていました。生活が困窮した農民の家財道具を担保に金を貸したその利子で暮らしていました。
凶作のたびに飢餓に苦しむ悲惨な現実に身を置く農民と対極に担保を取り上げる非情さで財を成したのが宮澤一族でした。
宮澤家の長男の賢治はそんな家業をつがねばならない自分の身の上を嫌悪していました。
賢治は父親に反発して東京に家出をしてフリーター暮らしをしました。が、その東京で賢治は保坂という最大の親友を失い、傷心して父親のいる花巻へ戻ることになりました。賢治の家出は失敗に終わりました。
そして、花巻に帰った賢治を待ち受けていたのは最愛の妹トシの他界でした。
賢治は押し入れの中に入って、布団に顔を突っ込み泣いて、泣き明かしました。

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嘆き悲しんだ賢治は「トシの魂はどこにいるのだろうか。どうか良い所へいってくれ」とトシの行方を捜しもとめて青森・北海道経由で樺太へ旅をしました。

「あいつはこんなさびしい停車場を
たったひとりで通っていったらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たったひとりでさびしくあるいて行ったらうか」

「そのままさびしい林のなかのいっぴきの鳥になったのだらうか」

「とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通って行き
それからさきどこへ行ったかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかれない
感ぜられない方向を感じようとするときは
だれだってみんなぐるぐるする」青森挽歌

三次元世界の賢治の人生は挫折と失敗の連続であり、すべて中途半端に終わりました。
『ほんたうのしあわせ』にたどりつくことができなかったように見えます。
賢治の志は未完のまま終わったと考える人もいるとおもいます。

「すべてこれらの命題は心象や時間それ自身の性質として第四次延長のなかで主張されます」春と修羅・序


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トシの死によって賢治は魂の暗い夜に入りましたが賢治を次元上昇させました。
青森挽歌で賢治は次のようにいっています。

「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それを概念化することは
きちがいにならないための
生物体の自衛作用だけれども
いつまでもまもってばかりいられない」青森挽歌

自我は自己防衛機制を持っているので情動から逃れようと思考が作り出す物語の中に逃げ込んでしまいます。
「ほんたうのしあわせ」は概念という思考の次元を超えているので説明がつかない形で現れてくるのです。

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「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」農民芸術概論
三次元の人生劇場では毎日、悲劇喜劇が演じられています。

その芝居と自分を同一化して、よろこびや悲しみを感じている観客がマインドです。
人生で受け入れられない経験をすると、不快な感情や重たい気分に巻き込まれてマインドは苦悩します。
快と不快、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、成功と失敗、二つの世界がひとつになって演じられている「何もない空間」が自己の本性です。
三次元を超えたその空間全体が本当の自分です。

役者が去って芝居が終わっても演じられていた空っぽの空間は始まる前と何も変わることなく存在しています。
芝居の中で恐ろしい死が演じられても本当の自分が死ぬわけではありません。芝居から自己の本質が影響を受けることはありません。
本当の自分は芝居が終わっても変わらずに存在し続けます。真理探求の道は変化し続けるものの背後でけっして変わらない「ほんとうの自分」「まことのひかり」を見つけ出すことなのです。

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賢治は詩「春と修羅」で自分を修羅といいました。
賢治は貧しい人々から搾取する家業に嫌悪感を持っていました。
父親に反発しながらも経済的に依存せざるをえない自分の立場に葛藤して修羅の道と呼んだのです。
修羅場から脱出する方法は自分の行為を大いなる存在に明け渡すことでした。

「すべてあるがごとくにあり
かがやくごとにかがやくもの」青森挽歌

「あるがごとく」つまり、悩み苦しむ自分の修羅をまるごと全部あるがままに受け入れるのです。

世界と自分を分離させていた思考を外すと世界はひとつに光り輝いています。

ジョバンニはダイヤモンドをばらまいたようなまばゆい光に包まれて次元を飛び越えました。

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」銀河鉄道の夜

「日は君臨し 輝きの 太陽系は 真昼なり
   険しき旅の 中にして 我ら光の 道を踏む」花巻農学校「精神歌」
険しい旅路の途上そのものが天上界の光の道なのです。

「あいつはどこへ堕ちようともう無上道に属している」青森挽歌
トシはこの上ないさとりの世界に属していました。どんなに苦しい道を歩いていても無上道という「ほんたうのしあわせ」の道を歩いていたのです。

賢治が感動した法華経序品では次のように言っています。
「そのとき、釈尊は眉間から一条の光を放った。その光は東に向かい、一万八千の世界を照らし出した。下は地獄 から上は天に至るまで、世界のすべてのものを照らし出した。」法華経序品

永遠の光はすべてを照らし出します。闇は光の不在なので、光がさすと闇は一瞬にして消えます。

「私という現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」春と修羅・序

わたしという自我に実体はなく
他の存在との関係性の中で
有機的に交流して
せわしく明滅している
青い照明なのです。
私の中に全てがあります。

「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから」春と修羅

「世界がぜんたい幸福にならないうち は個人の幸福はあり得ない」農民芸術概論

「なにもかにも透明だ
水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」種山ケ原
すべては全体で全体以外のものはないのです
全体は光で満ち溢れています。

光以外のものはなにもなく
「罪や、かなしみでさへそこでは聖くきれいにかゞやいてゐる。」のです。

「もし風や光の中に自分を忘れ
世界がじぶんの庭になり、
あるいは恍惚として
銀河系全体をひとりのじぶんだと感じるときは
たのしいことではありませんか」
清六への手紙

「けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じようになる」銀河鉄道の夜 ブルカニロ博士
ほんとうの知性と偽りの知性の違いがわかれば思考の罠にはまらなくなるでしょう。

「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません」(めくらぶどうと虹)

本当の自分はほろびることがありません。
まことの光はほろびることがない永遠の光なのです。

自己の本質が生まれることも死ぬこともない永遠の存在だということを法華経では「久遠の仏(ダルマカーヤ)」といいました。

本当の自分が消えることがない「まことの光」です。
それは得ることも失うこともありません。

宇宙を信頼して絶えず変化していく存在の流れを尊重して委ねてゆく事ができれば、どんな困難な状況でもその出来事全体のプロセスは意識の進化と成長をもたらします。
起きてくる出来事を透明な眼差しで見つめ続ける事ができれば、それまで、狭い視野で世界を見ていた自分の硬直したパターンに気がつくことができます。
無意識に持ち込んだ過去の葛藤や表現できなかったエネルギーは価値判断を持ち込まない透明な眼差しを持ち続ける事で完全に解放された心の本質に到達します。

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童話「マグノリアの木」で主人公はマグノリアの白い花が咲いているところを求めて、厳しい山や谷をいくつもいくつも登ったり下ったり、沓の底を踏み抜きながらも捜し求めます。

ところがマグノリアの白い花はいくら捜せど見つからず、ついに疲れ果てて座り込んでしまいます。
ふと、今自分がいままで歩いてきた方向に目をやると、山谷の刻みいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いているのでした。

「マグノリアの木」の主人公とは賢治です。
「ほんたうのしあわせは」の象徴がマグノリアの花です。
マグノリアの花はどこか遠い峰々に咲いているのではありません。
歩いてきた道程すべてにマグノリアの花が咲いていました。

歩いているいまここに「ほんたうのしあわせ」があり探して歩いている時も「ほんたうのしあわせ」の只中にいつもいたのです。
私たちの周りにマグノリアの花はいつも咲いています。

「ほんたうのしあわせ」はまなぐあげよく見るといまここにいつもあるのでした。

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2018/08/22

右脳と左脳




左脳の言語中枢が低下して思考が静かになったとき、右脳が活性化を始め日常的な意識の自我が消滅します。その状態を、あらゆる苦しみを離れた永遠の安らぎの境地「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼びます。

『列子(れっし)』に「忘坐(ぼうざ)」という話が出てきます。

宋の陽里という所に華子という人がいました。華子は「忘れてしまう病」にかかりました。

道を歩いては歩いていることを忘れ、部屋で座っていても座っていることすら忘れてしまいました。先のことは考えられず、過去のことを憶えていられませんでした。華子の妻子は彼のことを心配して医者、占い師、祈祷師とあらゆる手を尽くしましたが治りませんでした。

途方に暮れていると、魯(ろ)国の学者が華子の病を治せると断言したので治療を乞いました。「ただし、この方法は門外不出の秘法なので、決して他の者に見せるわけにはいかぬ。」と言い残して華子と学者の二人きりで七日間家に籠もりました。

果たして七日後、華子の忘れる病は完治しました。喜んだ家族は魯の学者に財産の半分を差し出しました。

ところが、元に戻った華子は、急に怒り出し、妻を追い出し息子を殴りつけ、病を治してくれた学者に矛(ほこ)を持って追い回し始めました。訳も分からないままやっとの思いで華子を縛り付けて、なぜ怒るのかと問いただすと華子は恨めしげにこう言いました。

「俺が病にかかっていたとき、天地の存在を忘れるくらい心が落ち着いていた。ところが病が治った途端、過去数十年の生死や損得、好き嫌い、喜怒哀楽の感情が一気に吹き出して、その記憶に飲み込まれそうになった。これから先の俺は死の恐怖と、悪しき記憶に乱されながら生きていくことになってしまった。忘却という一瞬の心の安らぎを得られない境遇を嘆き、怨んであのような真似をしたのだ。」

孔子の弟子の子貢(しこう)はこの話を聞いて不思議に思い、孔子に話してみると孔子は「お前には理解できないだろう」と言いました。

『列子』の忘坐の話は左脳優位の話です。

人間には右脳と左脳という二つの意識があります。左脳には言語、計算、分類、区別、分析、 判断、記憶など様々な機能があり、社会の常識や、仕組みなどを理解して、過去の記憶の中から情報を取り出して、分析、整理します。未来を予測して身を守るための行動へと反映しています。

しかし、他人から低い評価を受けたり、否定されると左脳の言語中枢は自分の都合の良い思い込みの物語を作って自分を守ろうとします。

自我は過去の記憶で成り立っているのです。

左脳は過去の記憶の中から情報を取り出して絶え間なくおしゃべりを続けるので、今ここに安らぐことができません。左脳優位が行き過ぎると「華子」のように恐怖や不安、怒りなどのストレスにさいなまれます。

左脳の機能が低下する脳卒中に襲われた脳科学者がいます。

脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士は自宅で脳の血管が破裂して歩くことができず、話すことができず、読むことができず、書くこともできず、また自分の人生の出来事を思い出すことができなくなってしまいました。

そんな危機的な状態の時に、不思議な体験をしました。自分の身体の感覚と空間の境界が消え、無限のエネルギーと一体となったのです。

自分自身を固体として認識できず自分が溶けたエネルギーの流動体として認識していました。

過去・現在・未来という直線的に過ぎ去る時間がなくなり永遠の今だけがありました。

何事もそんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。自分が巨大になり広がっていくのを感じていました。

ストレスがすべて消えて静かで平和で解放された、至上の幸福、やすらぎに包まれていました。その体験を涅槃(ニルヴァーナ)と表現しています。

左脳の言語中枢の活動が減少して頭の中のおしゃべりが鎮まり、右脳が活性化すると至福に入るのです。

日常生活の心の状態はすでに終わった過去にこだわっています。未来を夢想したり良くない事を想像して不安になったりしています。思考は今ここにいられません。

今ここに在るとき不安や恐怖は存在できません。今この瞬間から外れて過去の思いに行ったり、未来を想像している時に心は不安や恐怖に襲われます。

思考に同化することをやめて、今この瞬間に意識を向けると思考や感情に覆われていない本当の自分が現れます。

今まで真実と思い込んでいた世界は思考が作り上げた夢だった事に気がつきます。
2018/08/22

永遠の至福



法華経では蓮の花をたとえに教えを説きます。

蓮は泥を栄養に成長して美しい花を咲かせることから、
怒り、嫉妬、ねたみ、争いの煩悩渦巻くこの娑婆世界にあっても、
私たちの本質は蓮の花のように美しく輝いていることを表しています。

心の表層がどんなにひどく汚れた状態に思えても
私たちの心の本質の輝き、美しさが失われることはありません。

日常の意識は永遠の幸福(あること・being)を求めて、努力(すること・doing)をします。

しかし、最高の状態に到達しようと努力(すること・doing)を続ける限り、
今ここ(あること・being)にいられないのです。

これが探求の道で起きるパラドックスです。

花は咲いてから実(み)がなるのですが蓮の花は咲く前にすでに実(み)を持っています。

生と死という因果を超えて、私たちの本質はすでに最初から永遠の至福の状態に在ることを蓮の実は表しているのです。

今日も泥沼の中から汚れることがなく蓮が美しい花を咲かせています。
2018/08/22

極楽




極楽はサンスクリット語の「スカーヴァティー」の訳語で「幸福にみちているところ」を意味しています。極楽浄土の浄土は阿弥陀仏が住んでいる世界です。

阿弥陀はサンスクリット語のアミターユスあるいはアミターバが語源です。アミタは「無限」アーユスは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられています。

アミターバはアーバーの意味が「光を持つ」なので無量光と訳されました。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめています。

阿弥陀経では阿弥陀仏の光明はありとあらゆる世界を照らし障害がないので阿弥陀と名づけられていると説いています。

阿弥陀とは、無限の光で、永遠の寿命をもつものという意味なので光明を人格化したものです。阿弥陀の光は遠くも、近くもすべてを照らしています。

宇宙は阿弥陀という光で満ちているのです。
すなわち、この宇宙あらゆるすべてが極楽なのです。



ところが、世俗の信者はひたすら念仏を唱えて死んでから阿弥陀如来がいる西の十万億の仏国を過ぎた西方浄土に行くと考えます。
悪い事をすれば地獄へ落ち、念仏を唱えれば極楽に行くと教えられたからです。

親鸞(しんらん)上人は「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」で極楽とは苦の原因である無知の扉を超えてさとりを開く事だと言っています。
阿弥陀経も心が苦を離れている状態が極楽であると説いています。

明治の山崎弁栄(やまざきべんねい)上人は極楽浄土がいまここを離れてどこか遠い場所が物理的にあると考えるのは間違いで、心の眼が開けばこの現実がそのまま極楽浄土であると説きました。

法然上人は臨終の時に「極楽に行けるのですね」と弟子が質問すると「私は極楽から生まれ、極楽の世界に生きた。また極楽に帰るだけのことである」と答えてます。

阿弥陀の語源は「無限と無量の光」なので、今ここにある光明そのものを意味していました。

極楽浄土は死んだ後の何処か遠い世界ではなく、今ここに在ります。
私たちは今も阿弥陀の光明のただ中にいます。 極楽浄土で暮らしています。
ところが、自我は思考で覆われた闇にいます。思考で光を覆っていることに自我は気がつきません。

仏教ではそれを無明と言っています。
闇はそれ自体で存在しているわけではありません。
闇は自我がつくりだしているので思考で闇を取り払うことはできません。
存在していない闇を思考で消そうとすれば疲れ果てるだけです。闇を消すには智慧の光(プラジュニャー)をもたらすだけで良いのです。

私たちの知覚は思考によって制限されています。
本来の姿から遠く離れた状態で過ごしています。

一つの世界を光と闇に分離して見ているのです。

思考がどのように生じて来るのか
感覚がどのように生じてくるのか
操作する事なく
あるがままに見守ります。

すべての現象は実体がなく
この世界のあらゆる現象はとどまる事なく過ぎ去ります。

感情や思考や体の感覚が川の流れの泡のように一瞬浮かんでは消えていきます。
光を遮っている思考に気づいた瞬間、智慧の光が射します。

そのとき混乱や苦悩という自我の闇は一瞬にして消え去ります。

思考を通さずに世界をあるがままに見た時
分離した世界はどこにもなく
見るものも見られるものもなく
あるがままの全体だけがそこにあります。

全体から全体を引いても全体が残ります。
全体に全体を足しても全体が残ります。
全体は増えることもなく減ることもありません。
全体を分けることはできません。

本当の自分は肉体の生死を超えていて、そして不増不減で空なんです。
極楽を求めてどこかへ行く事はありませんでした。

死んだ後に極楽があるのではなく、自我の覆いに気がつけば極楽はすでにいまここにあります。
一瞬一瞬のいまここを丁寧に生きることが極楽なのです。

阿弥陀の光明によって衆生が救われるということはそういうことだと思います。
2018/08/22

自己の本質

「ペインボディ」という言葉を使う人がいました。これは、ボディワークの元祖ライヒの性格の鎧(character armor)や、セラピーでよく使われるインナーチャイルドである抑圧された古いネガティブな感情の集まりのことでそれをエックハルト・トールが独自の表現で「ペインボディ」と表現したものです。

ペインボディが使われているのはエックハルト・トールの影響を受けている人が増えているからだと思います。エックハルト・トールの良い所は難しい専門用語が少ないことだと思います。

『思考を客観的にながめていると、その行為をしている「ほんとうの自分」の存在に気づきます。』エックハルト・トール

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『出来事は人を不幸にすることはできません。人間を不幸にしているのは、自分自身の思考なのです。あなたを不幸にしているのは、出来事に対するあなたの「解釈」、あなたが自分に話し聞かせている「わたしの物語」なのです。』エックハルト・トール(さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる)

私にとってエックハルト・トールは仏教と同じことを言っているように思えるのですが、仏教は仏教特有の言葉が多いので日常生活になじみのない仏教の話は難解に聞こえるようです。

チベット仏教では日常の思考する心を「セム」といい、それとは別な純粋意識を「リクパ」と言って区別しています。幸福と不幸、清浄と不浄、善と悪、愉快と不愉快という二元性に分離した思考は「セム」なのです。そして「リクパ」は永遠に空であって、常に清浄です。
鏡はすべてのものを映し出しますが、どんな像が鏡に映し出されても鏡自体が汚れることはありません。この汚れることがない心の本性が「リクパ」なのです。

リクパは秘密集会タントラに「土台として本来そなわっている光明としての心」として出て来ます。覚醒している光明の心が本当の自分なのです。その状態がダルマカーヤ(法身)です。

自分自身を観察して自己の真の本質がリクパであることを悟ることがチベット仏教の最終目的となっています。
チベット仏教は段階を追って進む道でもあります。戒律を守って静かな心の境地に入る最初の道、次に空性を理解するタントラの道があります。

9 世紀以降に発展した後期密教はタントラ仏教(Tantric Buddhism )と呼ばれています。タントラは次の四つの種類があります。
①所作タントラ②行タントラ③瑜伽タントラ④無上瑜伽タントラです。①~③は空海が日本に持ち帰った密教です。
④の無上瑜伽タントラはインドで最後に発展したので、チベットには伝わりましたが日本には伝わりませんでした。

無上瑜伽タントラには「ヘーヴアジラタントラ」を教典とする母タントラと『秘密集会タントラ」を教典とする父タントラがあってその二つを統合したタントラを不二タントラといいます。不二タントラは「時輪タントラ」を教典としています。
タントラではエネルギーを扱います。

エネルギーを知らなければ私たちは心に怒りが湧いてきたときに怒りを止めたり避けようとします。しかしタントラはそのエネルギーをよく知っているのでそれを止めたり抑圧したりせずに活用するのです。 それを可能にするのがタントラの修行です。
このタントラ修行の最後の段階「あるがままで完全な境地」をカギュ派はマハムドラー、ゲルク派はゾクリム、ニンマ派はゾクチェンと呼んでいます。

「マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて」
「ゆったりと自然なる境地にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん」
「与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし」
(「マハムドラーの詩」より抜粋)
チベットでは教えを伝授する教師(ラマ)が大切にされています。

しかし、あるがままで完全なリクパの境地を説明し、それを理解させようとする教師はいますがそれを直接与えることができる教師はどこにもいません。今までもいませんでしたが、これからも出てくることはないでしょう。

教師は自己の本性を理解するための方法しか与えることができないのです。
それは教えを授かる方のカルマに関わっています。

光明はもともと人の本質に備わっているので、あらゆるものは、あるがままで最初から完璧なので変えたり取り除いたりするものは何一つないことをチベットで「クンツゥ・サン」と呼んでいます。

寂静な心の境地の中にとどまる瞑想をシネーといいます。しかし思考のない三昧の状態は眠っている状態と同じなのです。瞑想をやめると静寂は失われます。

そこで思考や感情などのエネルギーが動いている状態とリクパの境地が一体となることをゾクチェンは求めます。

覚醒していても覚醒していなくともリクパは誰の心にも最初からあります。

しかし、わかっていない人には、自己の本性であるリクパと自覚されずに思考で理解したリクパの二つになっています。どちらのリクパも一つですが、最終的にリクパは心の中で再統合されなければなりません。それをマハムドラーでは「母と子の光明の再統合」の言葉で表現しています。

「はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海となり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ」
(マハムドラーの詩)

タントラの最終段階ではさまざなエネルギーが湧き上がる中にとどまりながらリラックスして、あるがままの境地を保ち続けるのです。
ゾクチェンでは 一切はすでに成就しているので努力の病を捨て去り、そのままで完全な境の中にとどまりなさいと教えます。
ゾクチェンの無努力の教えを言葉だけで理解すると「すでに自分は悟ってしまったので、心の浄化や瞑想は必要がない」と思い込んでしまう人が出てきます。
人に迷惑をかけて犯罪行為に手を染めても、わたしは完全だ。何も問題はないと自分を欺いてしまうのです。
ここでは詳しく述べませんが、その危険性は昔から指摘されていました。
しかし、同時に自己の本性を知ってしまえば瞑想の方法を借りる必要がないことも確かなのです。
タントラの最終段階に入る前に無意識の浄化と思考を観察する瞑想が必要だと私は思います。

「私はあるがままで完璧だ」
「私は完全な存在なので瞑想もワークも必要がなく、何一つ変える必要はない。」
とそう自分に言い聞かせて、思い込むことはできます。

マインドは本を読んだり話を聞いただけでわかったつもりになりになります。わたしのマインドも同じです。今ここにいられないマインドが本性を捉えることはできないのです。

分離した自我をかかえたままがほとんどなので、(光明を得た完璧な人間像は頭で理想化して作り上げられた概念だと思います。)無意識の底に潜むトラウマが浮上して必ず悩まされます。

自分は完全だと強く思いこむ人ほど抑圧は強まるので、ごまかしても、痛み止めが切れると再び痛くなるように、あとで、ひどく落ち込むことになります。

よく裏話を耳にしますがスピリチュアルな教師にシャドウーが濃い人が多いのも事実でしょう。自分の無意識を浄化しないで教師になって教祖になる例は多く、教祖になってしまうと誰かの生徒になって自分を浄化する機会を失ってしまうようです。
いくら「宇宙は愛と光で満ちている」「私は完璧だ」と自分を正当化しても抑圧したエネルギーは無意識にそのまま残されます。
しかし、自分自身の問題との直面をさけ現実と向き合うことの逃避に使われてしまうと、あるがままの自分を見ないで自我を強化し防衛してしまうのです。

わたしたちは完全な存在ですが、それを思考でとらえることはできないのです。