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2018/09/30

盤珪 [とかく思えば皆うそじゃ」



9月30日は江戸時代の名僧盤珪(ばんけい)さんの命日です。盤珪(ばんけい)さんは写真の姫路の龍門寺で入寂しました。

「悪をきらうを善じゃと思う きらう心が悪じゃもの」 盤珪
「善をしたこと善じゃとうじゃる うじゃる心が悪じゃわい」盤珪
「善きも悪しきも一つにまるめ 紙につつんで捨てておけ」盤珪

盤珪さんはやさしい日常の言葉で教えを説いたので大名から庶民にいたるまで幅広い階層の人々の帰依を受けました。樹木希林さんの葬儀が行われた光林寺は盤珪さんの創建で盤珪さんが説法をすると千余の人々でうずまったといいます。鈴木大拙は『禅思想史研究」で不生禅の盤珪さんを高く評価していました。


盤珪さんの有名な短気の問答です。
質問
「それがしは生まれついての短気でございまして、直そうと存じますけれども、これが生まれつきでございまして直りませぬが、これはなんと致したら直りましょうか」
盤珪
「そなたは面白い物を生まれついたのい。今もここに短気がござるか? あらばここへお出しやれ。直して進ぜよう」
質問
「ただ今はござりませぬ。何とぞ致した時に、ひょっと短気が出まする」
盤珪
「しからば、短気は生まれつきではござらぬ。なにかしらのご縁によって、ひょっとそなたが出かすもので、何かした時もそなたが出かさなければどこに短気があるものぞ。そなたが出かしておいて、それを生まれつきというのは難題を親のせいにする大不孝者というものでござる。
生まれつきなら短気は今もあるはず。親から生まれついて持ったものは不生の仏心ひとつで、それ以外のものは一つもありませぬ。一切の迷いは勝手に自分をひいき(自己中心的)にして、自分が思いを起こすからで、それを生まれつきと思うのは愚かでござる。われが思いを出かさなければ短気がどこにもありますまい。ない短気を直すとは無駄なことで、不生の仏心をしれば迷いたくとも迷われませぬ。不生の仏心でござれ。」

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自我はたくさんの記憶や感情、思考で出来ています。頭の中では思考が次々と浮かんでは消え、刻々と変化してとどまるところがありません。思考はうつろい、変化してゆく諸行無常なものです。「あーでもない。こーでもない。」と言っている私はいないのです。

「無為の心はもとより不生 有為が無き故迷い無し」盤珪

実体のない思考を私と思い込んでしまっているのが私たちです。ですから盤珪さんに「短気を出しなさい」と問われても「はいこれです」と差し出すことはできないのです。

盤珪さんの「不生の仏心」とは生まれる事も死ぬ事もない本当の自分のことです。永遠の自己は誰もが生まれつき備わっています。本当の自分に気がつけば思考が自分ではないことがわかるのでマインドに巻き込まれることがなくなります。「不生の仏心」に気がつけば、悟りを得ようと念仏を唱えたり、厳しい修行も坐禅もする必要がないと盤珪さんは教えました。

「仏道修行をつとめし後は 何もかわりは得ぬものを」 盤珪
「迷い悟りはもと無いものじゃ 親も教えぬならいもの」 盤珪
「悟ろ悟ろとこの頃せねば、朝の寝ざめも気が軽い」盤珪

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禅では悟りの境地を『桶の底が抜ける』 と表現します。底が抜けた何もない空っぽの桶は虚空を表しています。思考が現れては消える虚空である空っぽの桶それが自己の本質です。
なかなか桶の底が抜けない探求者はすぐれた師を探して桶の箍(たが)を緩めてもらいます。箍(たが)が緩んでしまえば、あとは時期がくれば底は自然に抜けます。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」盤珪

箍(たが)を緩めるつもりの講釈が人によっては逆に箍(たが)を締めてしまうことがあります。
講釈はマインドを強化してしまいます。究極で桶はありませんが老婆心ながら

「昔思えば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじゃ」 盤珪
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2018/09/30

人は愛を必要としている。



人は愛を必要としている。

先日、イラクの独裁者だったサダム・フセインの番組を見ていました。サダム・フセインは生まれる前に、実父を亡くしていて、母親の再婚相手からひどい暴力の体罰を受けて育てられていました。サダム・フセインは子供の頃に虐待を受けていたのです。

子供の頃に虐待を受けた独裁者で思い出すのがスターリンです。スターリンの父親はアルコール依存症で、気に入らない事があると妻とスターリンをムチで虐待していました。父親だけでなく母親のエカテリーナもスターリンが言うことを聞かなければ容赦なく殴っていました。父親と母親の両方から虐待をうけて成人したスターリンもまた気に入らない相手をすぐに殴りつける性格を持っていました。

シリアルキラー(連続殺人犯)は愛情のない機能不全の家庭に育っていることが明らかになっています。シリアルキラーは幼児期に見捨てられたり、支配的な母親に育てられた者が多く、ほとんどが子供の頃に虐待を受けていました。シリアルキラーはたいてい、人との関係がうまく築けない者が多いので長く仕事が続かなかったりします。

もちろん虐待を受けて育った人々が必ずしも全員が暴力的になるわけではありませんが内側に膨大なエネルギーが蓄積されていることだけは確かだと思います。そのエネルギーが外側に向くと暴力的になり、内側に向くと他人ではなく自分自身を傷つけるようになります。何れにしても溜め込まれたエネルギーは何かをきっかけに解消しようと表出します。

子供の頃にひどい暴力を受けて育つと、苦しみを感じたくないので感じる通路を塞いでしまいます。そして育った環境に適応した仮面をつけて生きるようになります。しかし、ハートはしっかり閉じています。そのために感受性が希薄になり、他人の苦しみや悲しみを感じることができません。相手に苦痛や被害を与えても平気になってしまうのです。

子供の頃に十分な愛を受けとることができなければ愛を与えることは難しくなります。暴力を使うことしか知らないで育てば、暴力をふるってしまうでしょう。マインドは機械なので暴力のプログラミングが入れば問題解決に暴力をふるってしまうのです。
マインドから自由になるには、私たちはマインドではなく、マインドを超えた存在だと気づくしかないでしょう。本当の自分の存在に気がつけば暴力的なマインドに支配されることはなくなります。

以下、連続射殺事件を犯した永山則夫の母親と祖母の3代に渡る記事です。

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最初の愛の経験は両親からもたらされるが、そのもっとも愛して欲しい両親が子供を傷つけてしまう。
もし子供に愛という食べ物が与えられなければ、愛を与えることも受け取ることも困難になってしまう。
子供は愛を必要としている。

愛を受け取れずに自分の感情を切り離したとき、世界は愛すべきものではなく自分を脅かす敵となってしまう。
自分の内側に潜む恐れ、心の奥底にある感情の痛みに気がついて、あるがままの自分を受けれることができなければ、世界に敵対して戦い続けてしまう。

1968年に連続射殺事件を起こした永山則夫死刑囚のTV特集を見る機会があった。何百本ものカセットテープに記録された永山則夫の肉声が残されていた。死刑囚で彼くらい詳しく生い立ちが鑑定されたことはなかったようだ。

子供時代に必要なだけ抱きしめられ愛されなければ人を傷つけて刑務所に入ってしまうか精神を病んでしまう可能性がある。
永山則夫は永山家の7番目の四男として生まれた。永山の生まれた家は8人の子供がいて、さらに高校生の長男が作った子供まで引き取り育てていたので11人の大所帯だった。

父親の武男は腕の良い、りんごの枝の剪定師だったが、稼ぎの大半を博打につぎ込む無類の博打好きだった。たまに帰れば有り金を全部持ち出すので夫婦の仲は破綻していた。母親ヨシは一日中行商をして日銭を稼いでいた。母親が則夫に愛情をかけることは全くなかった。

永山則夫に父母の記憶はなかった。19歳年上の長女セツが進学を諦めて家事と育児のすべて引き受け幼い則夫の母親代わりをしていた。
則夫の年上の兄姉は皆そろって成績優秀で学校で3番以内の成績を残している。長女セツは、網走女学校入学から卒業まで首席だった。長女セツは、恋人の実家の助けを得て大学へ進学する夢を抱いていた。ところが永山が4歳の時、長女セツは婚約を破棄され泣く泣く子供を堕ろしたあと、精神を病んで精神病院に入院してしまう。

1954年(昭和29年)10月、お金を入れないどころか明日食べる米まで持ち出して金に換えてしまう博打三昧の父親との離婚を決意した母は実家のある青森県板柳に帰ってしまう。
しかし、一緒に連れて行ったのは女の子3人だけで、残されたのは14歳の三女、12歳の次男、5歳の四男則夫だった。
子供達は母親に捨てられたのである。
則夫は常に腹をすかして漁港で魚を拾ったり、ゴミ箱を漁ったり乞食同然の生活をして真冬の網走なんとかしのいだ。

どうして母親ヨシは子供を捨てたのだろうか?

そこにはヨシの母親である則夫の祖母マツの生い立ちも関係していた。
母親ヨシは1910年(明治43年)、北海道利尻島で生まれた。則夫の祖母マツは島根県から利尻に移住してきた漁師の娘だった。母親ヨシは2歳で父を失い祖母マツとともに樺太へ渡った。
日露戦争で南半分が日本領になっていた樺太には大勢の日本人が移住していた。ヨシの母親マツはカニの缶詰工場で働き、母親ヨシは学校に行かず女工の子供達の子守をさせられていた。母親と同棲していた男は酒癖が悪く焼酎を飲むと、母親ヨシを天井に吊るしたり叩いして、毎晩ひどい暴行を加えた。
祖母マツも子供を虐待した。「こうして苦しんで生きていても何もならない。おまえ死んでしまえ」とヨシは母親の祖母マツからたたかれていた。生活の苦しさに耐えかねた祖母マツは未遂に終わったがヨシと川へ飛び込んで心中を図ったこともあった。その後、大工と再婚した祖母マツは10歳のヨシを樺太に置いたまま、旦那の実家がある板柳へ帰ってしまった。
2年後の12歳のときシベリア地方の極東の町を放浪していたヨシはシベリア出兵から引き揚げ途中の日本軍の憲兵に助けられて青森県板柳町の祖母マツのもとに送られた。連子だったヨシは家から出て町の酒屋で住み込みで子守りを続けた。
永山則夫は母親ヨシから捨てられ放浪したが、その母親ヨシも母マツに捨てられ放浪していた。

因果は巡る。

春になって、やっと動いた福祉事務所が母親ヨシの居場所を探し出し、則夫たち4人は青森の板柳に送られた。
板柳では長男が音信不通、長女セツ(23歳)は網走の精神病院に入院したまま、次女と三女は学校を出ると逃げる様に家から出てそれ以降より付かなかった。

板柳の家にいたのは次男(11歳)、三男(9歳)、四男則夫(4歳)、四女と孫(ともに1歳)の5人だった。

次男は成績が優秀だったが、家が貧しく修学旅行もいけないし、高校に行ける見込みがなく、鬱憤した感情が一番幼い弟に向い、則夫はサンドバック状態で殴られた。鼻血を流せば止めるが、それがなければ気絶するまで続く暴力を日常的に受けた。
仕事から疲れて帰ってきた母は泣いている則夫を「また、泣いて」と理由も聞かず殴った。
則夫は博打好きの父親に似ていたので母ヨシはしゃくにさわったという。母ヨシは則夫を殴るときに、決して自分の手で殴らず、物で殴った。則夫と母親との間にスキンシップはなかった。

則夫は夜になると家の外を徘徊したり、汽車に乗って函館や福島まで家出をした。度重なる家出で、迎えに行く母親は仕事ができなくなり、困り果て、次男に暴力を止めるように注意して以降、次男のリンチはピタリと止まった。家出は俺の勝利だと思った。

則夫は孤独な生活を送り、友だちと遊ぶという自然な環境が皆無だった。

小学校の5年生の時に長女セツが精神病院から退院して則夫の学校の宿題を教え面倒を見た。則夫は小学校の6年間、不登校が続いたが5年生のときだけ風邪以外は登校している。

ところがある日、長女セツに男が出来て則夫はセックスしている場面を見てしまう。長女は妊娠するが男が逃げたので堕胎して則夫がその子を墓に埋めた。則夫にとって唯一、愛を与えてくれた姉だったが男と寝ていた姉に嫌悪感をもった。
兄貴に殴られるのとは違う何か嫌なものを食べた感じがした。

セツの心は不安定になりまた、精神病院に入った。則夫は再び不登校を続けた。
その頃、網走以来行方不明になっていた父がひょっこり永山家に顔を見せるが、兄たちは父を木刀で殴り、叩き出してしまう。 翌日永山は、町の映画館の前で父に「100円やろうか」と声をかけられるが怖くなって逃げた。
親父はそのまま駅に向かい列車に乗って二度と板柳に現れることはなかった。則夫の目には、母が言うほど父が悪い男には見えなかった
永山則夫が中学1年のとき に父が死んだという報せが届いた。岐阜で行き倒れポケットには10円しか入っていなかった。警察の現場検証の父親のひどい死に顔の写真を見てから永山に自殺願望が生まれた。

「その頃だよね。何で俺生まれてきたんだろうって思ってね。何度も死のうと思ったよ。天井から縄をぶら下げてね。いつ死のうかそればかり考えてた」(永山則夫)

兄2人が集団就職で家を出てゆくと、逃避の形で一時的に蓋をしてきた則夫の内部のエネルギーが、妹に向かって放出した。今度は則夫が妹や姪を木刀で繰り返し打ちのめしたのである。妹を繰り返しなぐることで、劣等感を解消しようとした。
暴力を振るわれて育った則夫は妹への接し方が判らず、暴力でしか自分の気持ちを表現できなかった。

母親のヨシは則夫を疎ましく思い、早く出て行け、出て行けと、そのことばかり考えていた。

昭和40年3月、集団就職で青森を発つ則夫を見送る家族は誰もいなかった。

則夫は東京で職に就くが被害妄想が強く、誰とも打ち解けることはなかった。
「みんな俺が来ると、黙っちゃうんだよね。あ、俺のこと噂してたのかな、とか思うよね。嫌でたまんなかったね」(永山則夫)
3年半の間に20回近く転職を繰り返す。しかし何処へ行っても同じで、他人への猜疑心に苛まれ、家出の時のように、嫌になれば荷物を残したまま、職場から逃げ出してしまった。
永山は人に優しくされたりほめられた経験がほとんどなかった。
唯一優しくしてくれたのがセツ姉さんだったが堕胎をきっかけに精神を病み必要な愛を受け取ることができなかった。

「とにかく独り。どんどん独りになっちゃったんだな。夜になるとさびしくてね。親父みたいに死にたくなくて、怖くて、俺もいつかは野垂れ死にだって」(永山則夫)

 永山は18回自殺未遂をしている。日本から逃げ出そうと外国船に忍び込んで自殺を図り発見されて少年鑑別所に入れられた。そこで全員から耳から血が出るほどのリンチを受けた。

「全員にやられたんだ。あと一時間やられてたら死んでたかも知れないな」(永山則夫)

出所したけれど、もう何処へも行くあてのない彼は、二度と戻らぬつもりでいた母親のいる板柳に戻った。しかし、疲れきって帰った則夫に母は罵声で迎えた。
「俺はもう何もかも嫌になってたんだ。もう少しお袋が静かにしてくれてたらよかったのに」(永山則夫)
そのあと永山は寝るところもなく放浪し、横須賀基地に侵入して拳銃を盗んだあと、次々と4人を殺害し逮捕された。

永山の鑑定書は次のように述べている。

「劣悪な成育環境と母、姉らの生き別れ等による深刻な「外傷的情動体験」と放浪時の睡眠障害、孤立状態、無知が複雑に交錯し、増強しあった結果である。」

一審は死刑。
二審は無期懲役。

永山は1869年から48歳で死刑執行になるまで獄中で勉強を続け、新日本文学賞を受賞して作家となった。そして二審が始まる頃に獄中で結婚して、被害者遺族に本の印税を送り続けた。

最高裁の判決は死刑だった。

その理由を裁判官はこう述べている。
「永山が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、同じ条件下で育った他の兄たちは概ね普通の市民生活を送っており、また上京から3年以上社会生活を送った後に保護観察措置を自ら拒否して逃避した末に連続殺人の犯行を犯していることから、生育環境の劣悪性は4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」

普通の市民生活を送っていると裁判官に言われた永山家の兄弟姉妹の人生はどうなったかというと
長男は、則夫が逮捕される前年、詐欺罪で逮捕され、宇都宮刑務所に服役後、出所してから実家には帰っていない。

次男は、卒業後、東京の機械制作会社に就職した。その後。長男に誘われ、住宅販売会社のセールスマンをして、結婚もして1児をもうけたが、離婚に至る。その後稼ぎのある女性を乗り換えながら、パチンコ三昧の日々を送った。
 しかし、その日暮しの生活も限界に達し、42歳の時、末期の胃ガンで川崎市内の路上で倒れているのを病院に運ばれ、誰にも看取られることなく、亡くなった。

次女は美容師を通信教育で取り、長男を頼って上京する。そこで、新宿の美容院で働いているうちに木型職人と結婚し、1児をもうけた。その後、離婚し子どもは相手が引き取った。

三女は、離婚して水商売をし、北関東にある雀荘のおかみとなるが、その後は連絡がとれなくなる。

三男は、大手出版社の名古屋営業所に勤務し、課長補佐となり、二十名の部下を使う身になった。

40歳の時、則夫の裁判で兄姉の中でただ一人裁判に証人として証言をしたが、後に退職し、永山姓を捨てて妻の姓となり、周囲との連絡を断った。

四女は、名古屋で針子をしていたが、則夫の事件から5年後、母が倒れたので青森に戻る。その後、弘前市で看護婦見習いとして働き始めたが、23歳の時、望まない妊娠をして未婚のまま男児を出産。バーのホステスとして働きながら、借金を重ね転職を繰り返した。結局、青森に帰ったものの、母の世話は一切していない。心を病み、子どもは乳児院に預けられた。

長男の子供の姪は、埼玉県にある工場に集団就職し結婚するが、その後離婚し、相談しに行った次男の手によって置屋に売られ、行方不明となる。

結局、年老いた母のいる板柳へ立ち寄る兄弟姉妹は誰一人いなかった。

東京拘置所で、母も自分と同じようなひどい目に遭いながら生きてきたことを聞かされた永山は「お袋の手記を知ってたら、事件なんか起こさなかったよ」と呟いた。

則夫は母に読めるようにカタカナで手紙を書き、母親ヨシと姉のセツに本の印税を送り続けた。
姉のセツが亡くなった平成4年の翌年に83歳の母親は老人ホームで亡くなった。

裁判官は4人を殺した永山を死刑にしなければ、これが判決の前例となって、今後、凶悪犯罪を裁くにときに、死刑が出せなくなることを恐れた。

平成9年8月1日永山は絞首刑にされた。

心血をそそいで書かれた鑑定書が無視された石川医師はその後、鑑定から身を退いた。
永山の遺灰は遺言で網走の海に撒かれた。

自分は生きる価値がない駄目な人間だという思い込みが、すべて外側から植え付けられたものだということに永山は気がつかなかった。

本当の自分に気がつくまで苦しみが終わることはない。

永山則夫は刑務所に入所して初めて自分を取り戻した。

それまでは無意識に埋め込まれた否定的な感情のエネルギーに支配されて、それを解消しょうと機械的な行動をとり続けた。

そこには沢山の心の痛みがあった。

子供は愛を必要としている。

愛という土壌があれば、
だれもが美しい花を咲かせることができるだろう。
2018/09/28

観照



マインドフルネスという言葉が瞑想として紹介されています。

マインドフルネスが頭をフルに使って今という瞬間に集中することと思っている人がいました。
集中は瞑想を得ようと努力している状態です。集中はマインドと同化している状態なので瞑想ではなく瞑想の前段階です。
集中で得られる境地は集中をやめると消えてしまいます。体験しているのはマインドだということにマインドは気がつきません。
瞑想とは思考と同一化しないで、努力することなく観照が起きている状態のことです。

覚醒・自覚・気づき(awareness)観照(witness)禅定(dhyana)光明 (enlightenment) 涅槃(nirvana) 三昧(samadhi) 瞑想(Meditation)非二元(nonduality)これらの言葉は皆、今ここで起きている事に気がついている私たちの本性を示しています。

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先日、来日した瞑想のファシリテーターのマニーシャはインドの神秘家Oshoの晩年の15年の間、彼のそばで過ごしていました。彼女の著書「和尚との至高の瞬間」から紹介します。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784881781661

マニーシャは最初、観照を理解できませんでした。

「自分はマインドそのものだ。いったいどうしたら、それから離れられるというのだろう。どうしたら、それを見つめられるのだろう。和尚は、マインドにエネルギーを与えるからマインドが存在するのだと言うが、それが理解できない。」

マニーシャは何年も継続して様々なOSHOの瞑想を行いました。

ある日マニーシャに観照が訪れました。OSHOの講話を聞いている間、マニーシャは吐き気をともなう頭痛が激しくなり、耳も聞こえなくなり、話すことも、動くこともできくなってしまいました。自分がふたつに引き裂かれる感覚、肉体から離れていく感覚を感じて、何とも言えない恐怖に襲われました。

OSHOの講話が終っても口も聞けず動けないマニーシャの異常な様子に気がついた友人たちは抱きかかえて彼女の部屋に担ぎ込みました。マニーシャはなんとか話そうとしますが言葉が出てきません。頭の中で言葉を組み立てても意味をなさない声がするばかりです。最後にやっと、起こっていることをOSHOに知らせてほしいと伝えましたが、「あの人に伝えて」としか出てきませんでした。OSHOの名前を思い出せなかったのです。

夜になると体の機能が戻ったので夜のダルシャンに行くと、OSHOは愛情に満ちた様子でマニーシャを迎えました。「あなたの名前が思い出せなかったんです!」とOSHOに向かって叫ぶように言うと、OSHOは「初めて、あなたは私が誰なのか知ったというわけだ」とクスクス笑いました。

そしてマニーシャは「小さな悟り」を体験したのだが、マニーシャが高く舞い上がりすぎないように、それをミニと呼ぶのだと次のように話を続けました。

「それは大きな衝撃のエネルギーだった。そして私は最初から何かが起ころうとしていることに気づいていた。あなたは、あるスペースにいた。それはほとんど、LSDを飲まずにLSDのトリップを体験したようなものだ。だからこそ、それはたいへん衝撃的だった。あなたがLSDを飲んだとき、あなたは自分が何をしたのかを知っている。あなたはそれが効いてくるのを待つ。だが、今回のことはあまりにも不意にやってきた。何の警告もなしにやってきた。あなたはそれを待っていたわけではなく、突然それはそこにあった。それは全身を掻き乱す。なぜなら、あなた自身とあなたの肉体の間に、ある距離が生まれ、古い繋がりが失われたからだ」


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次の朝、マニーシャは原稿を編集しようとしましたが文章を読んでいても、頭からすぐに文章が消えてしまうので編集などとてもできませんでした。

頭は空っぽで、考えると思考が静かに頭の中をパレードするかのように横切っては消えました。非常にふわっとした、拡張感を味わっていました。

マニーシャは和尚の庭を見ていました。樹木と融合することもなく、特別な啓示もなく、花々の周囲が輝く神秘的なことも何もなく、興奮している感じも、高揚感もなく、至福といった感じさえなく、マニーシャはただ、いまここに存在していました。

思考に同化している人は観照が何か劇的な体験が起きると思っていますが、そこには体験する人がいないので、ただ沈黙があるだけなのです。

「生まれて初めて心による内側の注釈なしに、ただ直接見ること、直接体験することは、まったく驚異的だった。私と私が見ている物の間には、何も介在しない。私とすべてが、ただ在るがままに存在している」マニーシャ

「後になれば、この体験を至福に満ちたものと説明できたでしょう。その時にはただ広大さであり、沈黙であり、虚無だったのです。」マニーシャ

観照が起きると最初に見守るもの(主体)と見られる者(客体)に分離します。いままで「見られる者(客体)」が自分だと持っていた自分が自分ではないと気が付いた時、古い自分は混乱します。

マニーシャは最初の沈黙に恐怖を覚え、閉所恐怖症のように感じたこともありました。私を飲み込み抹殺しようと脅かす沈黙に向かって叫び、それを切り裂いてバラバラにしてしまいたい衝動を覚えたこともありました。しかし、そのプロセスを止めないであるがままにしておけば自然に治ります。

以前と同じ編集の仕事が出来なくなって心配するマニーシャにOSHOは仕事をする能力は戻ってくるだろう、それとともに、より豊かな創造性がやって来るだろうと勇気付けました。

「あなたはまったく正しい道を行っている。一度も道を間違えなかった。本物でないすべてを、ただ溶かし続けなさい。雲のように感じるのは、素晴らしいことだ。観照そのもののように感じるのは、素晴らしいことだ」OSHO

やがてマニーシャは落ち着きお気に入りのコートに袖を通すように沈黙の中へ入ることができるようになりました。

マインドと同一化している私たちはこれらの言葉を頭で理解しようとします。しかし、観照は私というマインドが沈黙した時に気がつくのです。


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自分がふたつに引き裂かれているようなマニーシャの感覚はマインドからの脱同一化のプロセスを表しています。

心が静まった時、心の水面は鏡の様に景色を映し出し、常に見守り続ける観照者があらわれます。それがミニ悟りです。あるがままに思考全体を見守り続けている観照者が思考を超えた自己です。しかし、そこには観察するものと観察されるものという微妙な二元性が残っています。そして観照にとどまることで非二元にくつろぎます。

物心がついてから今日までの間、絶え間なく浮かんでは消えている思考を自分と思い込んでいます。それに疑いをもちません。しかし、本当の私は思考を超えて見ている意識なのです。思考を自覚する純粋な意識が本当の私なのです。

「観照する者は存在せず、観照のみが存在する。意識のみが存在し、それは人格も伴わないし形も持たない。そこに在るのは、どこからともなく現れ、どこへともなく消える炎のような気づきだ。消えてしまうまでの間だけ、あなたはその炎を見る……。あなたがいなくなる瞬間、観照は純粋なものとなり、この観照が途方もない祝福をもたらしうる」「この観照こそ仏陀だ」OSHO

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考えた瞬間
泡のように
思考が現れて
次の瞬間消えています。
体から感覚が生じては消えています。
まるで川の流れに浮かぶ泡のように

全ての出来事は現れては消えています。
すべての出来事は沈黙の中で起きています。

人々の意識にゆらぎが起きています。
意識のマトリックスの転換が進んで、
自分の思考を自覚することができる
観照の眼を持った人々が増え続けています。
やがて加速がついてその人数が社会を変えることができる臨界値を超えるでしょう。
その時、地球は新しい時代を迎えます。
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