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2007/04/02

明恵上人1 本覚思想

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 鎌倉時代の初期に何回かインドへ行こうとして計画をたてながら、その計画がことごとく頓挫した人がいる。栂尾(とがのお)高山寺の名僧として知られた明恵上人である。

 明恵上人のことは今から30年前、山尾三省を通して始めて知った。いつか明恵上人のゆかりの地を訪ねたいと胸に秘めてから幾星霜、近年、念願かないようやく訪れる事が出来たのである。

 明恵上人の生まれ故郷は「有田みかん」で有名な今の和歌山県の有田市だ。明恵上人の史跡は石の卒塔婆があるだけで有田には特別な建造物は何もない。生誕地の明恵上人ゆかりの屋敷跡には歴史を感じさせてくれる石の塔婆が置かれていて、そばには悠然と大木が立っている。

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その下に居ると木の葉の腕に抱かれているようでここちよい。立派な伽藍は何一つないが明恵上人のゆかりの地はすがすがしい気で満ちている。現代でも忘れ去れる事なく敬愛された明恵上人のヴァイブレーションがそこには色濃くのこっている。

 明恵上人が生まれた頃は平氏と源氏が戦いをしていた頃で父親の平重国は源氏との戦であっけなく討ち死にした。母も同じ年に他界している。明恵上人が八歳の時である。

 父は平氏だったが母方は紀州の源氏の豪族だったので、平氏が滅びたあとも地頭としてこの地を治め、明恵上人は親戚の湯浅氏を頼ってたびたび紀州に滞在した。

 四歳のころ明恵上人の父は戯れに鳥帽子を着せて見ると、姿が美麗なので侍に似合っているといった。僧になる決心をしていた幼い明恵上人はそれを聞いて顔立ちが良くて僧になれないならと焼け火箸を顔に当てようとした。ところが恐ろしくなり試しに腕を焼いた所あまりの熱さに鳴き叫んだという。

 九歳の時、叔父の上覚を頼って文覚の弟子になるのだが、文覚は明恵上人を見るなり「ただ人にあらず」と語ったとされている。この文覚という僧は京都の御所を警備する武士だったのだが友人の奥さんに手を出し、誤って殺してしまった罪を悔いて出家したのである。文覚は気が短く乱暴を働いた為に伊豆に流されてしまう。その伊豆で文覚にそそのかされて挙兵した源頼朝に明恵上人の父は打ちとれられてしまうのである。明恵上人は父を殺される因になる文覚の弟子になったのである。なんという深い因縁だろうか。しかも文覚と明恵上人の父の先祖はどちらも藤原秀郷の子孫なのである。気がつけばこのようにおそらく私たちにも網の目のような縁生がめぐらされているのだろう。

 日本には名僧がキラ星のごとく存在するが明恵上人ほど興味深い僧はいない。明恵上人は僧位、僧官を受けず、一宗一派にこだわらず自己の修行をされた高潔な僧であった。

「明恵 夢を生きる」を著作した河合隼雄は湯川秀樹と梅原猛より明恵上人の研究をするよう強く進められ伝記を読んだ所、尊敬の念が高まるばかりだったと語っている。又夢記を読み感激した河合隼雄は「自分の師と仰ぐ人を見出すことができた。」と最大級の賛辞を明恵上人に送っている。

 紀野一義は好きなお坊様はと問われて「明恵上人と道元禅師」と答えている。評価が高いわりには宗派を創立した鎌倉新仏教の祖師等にくらべると明恵上人は今ひとつ知名度が低い。

 明恵上人の評伝は非常に少ない。白州正子の昭和49年の「明恵上人」と河合隼雄著作集9の「仏教と夢」紀野一義の「明恵上人」の3冊が昔から手元にあったがどれも宗教体験についての記述には物足りなさを感じていた。その中で法然を「死の座標軸」とらえ明恵を「生の座標軸」と捕らえて対比させた 98年に出版の町田宗鳳著「法然対明恵」は切り口が斬新で大いに参考になった。

 明恵上人は密教と華厳を修め厳密の祖とも華厳宗中興の祖と呼ばれているが真言密教に対しては興味がなかったようだ。たぶん少しサンスクリット語を勉強しただけで中味がなくとも真言師とされる風潮に嫌気がさしたのだと思う。平安時代から続いて来た最澄と空海が開いた仏教は僧侶が権力にあぐらをかき民衆から搾取を続けてこの頃になるとすっかり腐敗してしまったのである。

 中世に発展した思想に本覚思想というのがある。本覚という言葉は「大乗起信論」から来ている。人は生まれながら仏性を持っているのが本覚。迷いの状態を不覚という。仏性は持っているのだが煩悩に覆われている不覚から次第に煩悩を取り除いて悟りに到達する事を始覚と言う。

 これは昔から論争の種だったが本覚はいつのまにか現実に悟りを開いているということになってしまった。ありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別にもとめる悟りはないという考えである。悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを開くことは非常に低次元のことで始覚門とよばれた。

 「草木国土悉皆成仏」という言葉がある。草や木も鳥や獣、虫に至るまで山や河、大自然すべて仏でないものはないということだ。この世に不要なことはなくすべてに意味がありまことに素晴らしい。

 しかし、すでに悟っているので修行は不要となると、向上心は薄れ、安易な現状肯定になってしまい危険な思想となる。このころの時代は僧兵が幅を利かせ武力による権力闘争を繰り返していた。

 かれらのいいぶんはこうだ。
「もともと罪などというものはない、罪があると思うのは妄想である。自分の心はもともと清いので仏である。」と僧侶はうそぶいて欲望のままに狼藉の数々を働いたのだ。

 中世のカトリックのように平安時代の寺院は荘園領主として農民を支配した。迷信深い中世の農民は地獄に行くことを真剣に恐れた。戦乱や飢饉や疫病が頻発する中で年貢米や強制労働で苦しめたのだ。

 現代でも中世の化石のような坊さんがいそうである。葬式のお布施が少ないと「こんなに少ないお布施では罰があたる。これでは良い戒名を付けられない。もっとお布施を沢山出さないと極楽へ行けませんよ。仏様がかわいそうだ。」実はこれと似た様な宗教家の話は耳にしたことがある。

 本覚思想が発展するのに先立っては密教の即身成仏と禅の頓悟があった。悟りを得るのは難しく限られた特別の人だけだとすれば、悟りを開いていない衆生つまり我々一般ピープルは修行を続けても、いつになったら悟りが開けるか判らないので不安になる。その点、もともと誰でも仏性が内在しているのであればそれを表に出せばよいので探求者の励みになる。それが中国から日本に伝わる間にいつのまにか仏性が全面に出て来て、すでに悟っているのだから修行は不要の本覚になってしまったのである。

 当然、極端に展開した本覚思想は批判されることになる。言葉による教えの危険性がここにある。月を示す指は方便であって月ではない。悟っている人にとって真実でも、探求者にとっては「あなたは悟っている。」は方便でしかない。それは薬のようなものだ。適切に使用すれば病が癒されるが使用を誤ると毒と化す。

 明恵上人は「あるべきようは」と人々に説き、自らは厳しく戒律を守り、修行によって悟りに至る始覚門の立場を明らかにした。

参考文献
明恵上人 白洲 正子 講談社
明恵 夢を生きる 河合 隼雄 京都松柏社
明恵上人集 久保田 淳 山口 岩波書店
名僧列伝〈1〉明恵・道元・夢窓・一休・沢庵 紀野 一義 講談社
明恵 田中 久夫 吉川弘文館
法然対明恵?鎌倉仏教の宗教対決 町田 宗鳳 講談社
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