2018/06/11

タントラの最終段階



チベット仏教では日常の思考する心を「セム」といい、それとは別な純粋意識を「リクパ」と言って区別しています。幸福と不幸、清浄と不浄、善と悪、愉快と不愉快という二元性に分離した思考は「セム」なのです。そして「リクパ」は永遠に空であって、常に清浄です。
鏡はすべてのものを映し出しますが、どんな像が鏡に映し出されても鏡自体が汚れることはありません。この汚れることがない心の本性が「リクパ」です。
リクパは秘密集会タントラに「土台として本来そなわっている光明としての心」として出て来ます。覚醒している光明の心が本当の自分なのです。その状態がダルマカーヤ(法身)です。
自分自身を観察して自己の真の本質がリクパであることを悟ることがチベット仏教の最終目的となっています。
チベット仏教は段階を追って進む道でもあります。戒律を守って静かな心の境地に入る最初の道、次に空性を理解するタントラの道があります。

f6634807.jpgチベット仏教サキャ派の総本山


9 世紀以降に発展した後期密教はタントラ仏教(Tantric Buddhism )と呼ばれています。タントラは次の四つの種類があります。
①所作タントラ②行タントラ③瑜伽タントラ④無上瑜伽タントラです。①~③は空海が日本に持ち帰った密教です。
④の無上瑜伽タントラはインドで最後に発展したので、チベットには伝わりましたが日本には伝わりませんでした。
無上瑜伽タントラには「ヘーヴアジラタントラ」を教典とする母タントラと『秘密集会タントラ」を教典とする父タントラがあってその二つを統合したタントラを不二タントラといいます。不二タントラは「時輪タントラ」を教典としています。
タントラではエネルギーを扱います。
エネルギーを知らなければ私たちは心に怒りが湧いてきたときに怒りを止めたり避けようとします。しかしタントラはそのエネルギーをよく知っているのでそれを止めたり抑圧したりせずに活用するのです。 それを可能にするのがタントラの修行です。
このタントラ修行の最後の段階「あるがままで完全な境地」をカギュ派はマハムドラー、ゲルク派はゾクリム、ニンマ派はゾクチェンと呼んでいます。

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「マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて」
「ゆったりと自然なる境地にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん」
「与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし」
(「マハムドラーの詩」より抜粋)

f3421487.jpgニンマ派の総本山 ミンドルリン寺


チベットでは教えを伝授する教師(ラマ)が大切にされています。
しかし、あるがままで完全なリクパの境地を説明し、それを理解させようとする教師はいますがそれを弟子に直接与えることができる教師はどこにもいません。今までもいませんでしたが、これからも出てくることはないでしょう。
教師は自己の本性を理解するための方法しか与えることができないのです。地図を与えることはできますが直接歩くのは弟子です。
光明を授かるには教師ではなく教えを授かる弟子の方に関わっています。
光明はもともと人の本質に備わっているので、あらゆるものは、あるがままで最初から完璧なので変えたり取り除いたりするものは何一つないことをチベットで「クンツゥ・サン」と呼んでいます。
寂静な心の境地の中にとどまる瞑想をシネーといいます。しかし思考のない三昧の状態は眠っている状態と同じです。瞑想をやめると静寂は失われます。
そこで思考や感情などのエネルギーが動いている状態とリクパの境地が一体となることをゾクチェンは求めます。
覚醒していても覚醒していなくともリクパは誰の心にも最初からあります。
しかし、わかっていない人には、自己の本性であるリクパと自覚されずに思考で理解したリクパの二つになっています。どちらのリクパも一つですが、最終的にリクパは心の中で再統合されなければなりません。それをマハムドラーでは「母と子の光明の再統合」の言葉で表現しています。
「はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海となり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ」
(マハムドラーの詩)

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タントラの最終段階ではさまざなエネルギーが湧き上がる中にとどまりながらリラックスして、あるがままの境地を保ち続けるのです。
ゾクチェンでは 一切はすでに成就しているので努力の病を捨て去り、そのままで完全な境の中にとどまりなさいと教えます。
ゾクチェンの無努力の教えを言葉だけで理解すると「すでに自分は悟ってしまったので、心の浄化や瞑想は必要がない」と思い込んでしまう人が出てきます。
人に迷惑をかけて犯罪行為に手を染めても、わたしは完全だ。何も問題はないと自分を欺いてしまうのです。
ここでは詳しく述べませんが、その危険性は昔から指摘されていました。
しかし、同時に自己の本性を知ってしまえば瞑想の方法を借りる必要がないことも確かなのです。
タントラの最終段階に入る前に無意識の浄化と思考を観察する瞑想が必要だと私は思います。
「私はあるがままで完璧だ」
「私は完全な存在なので瞑想もワークも必要がなく、何一つ変える必要はない。」
とそう自分に言い聞かせて、思い込むことはできます。
マインドは本を読んだり話を聞いただけでわかったつもりになります。わたしのマインドも誰のマインドにも同じことが起きます。今ここにいられないマインドは本性を捉えることはできません。
分離した自我をかかえたままの状態の人々がほとんどなので、(光明を得た完璧な人間像は頭で理想化して作り上げられた概念です。)無意識の底に潜むトラウマが浮上して必ず悩まされます。
自分は完全だと強く思いこむ人ほど抑圧は強まるので、ごまかしても、痛み止めが切れると再び痛くなるように、あとで、ひどく落ち込むことになります。
自分の無意識を浄化しないで教師になって教祖になる例は多く、教祖になってしまうと誰かの生徒になって自分を浄化する機会を失ってしまうようです。スピリチュアルな教師にシャドウーが濃い人がいるのも事実です。
いくら「宇宙は愛と光で満ちている」「私は完璧だ」と自分を正当化しても抑圧したエネルギーは無意識にそのまま残されます。
自分自身の問題との直面をさけ現実と向き合うことの逃避に使われてしまうと、あるがままの自分を見ないで自我を強化し防衛してしまうのです。
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