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2018/08/22

極楽




極楽はサンスクリット語の「スカーヴァティー」の訳語で「幸福にみちているところ」を意味しています。極楽浄土の浄土は阿弥陀仏が住んでいる世界です。

阿弥陀はサンスクリット語のアミターユスあるいはアミターバが語源です。アミタは「無限」アーユスは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられています。

アミターバはアーバーの意味が「光を持つ」なので無量光と訳されました。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめています。

阿弥陀経では阿弥陀仏の光明はありとあらゆる世界を照らし障害がないので阿弥陀と名づけられていると説いています。

阿弥陀とは、無限の光で、永遠の寿命をもつものという意味なので光明を人格化したものです。阿弥陀の光は遠くも、近くもすべてを照らしています。

宇宙は阿弥陀という光で満ちているのです。
すなわち、この宇宙あらゆるすべてが極楽なのです。



ところが、世俗の信者はひたすら念仏を唱えて死んでから阿弥陀如来がいる西の十万億の仏国を過ぎた西方浄土に行くと考えます。
悪い事をすれば地獄へ落ち、念仏を唱えれば極楽に行くと教えられたからです。

親鸞(しんらん)上人は「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」で極楽とは苦の原因である無知の扉を超えてさとりを開く事だと言っています。
阿弥陀経も心が苦を離れている状態が極楽であると説いています。

明治の山崎弁栄(やまざきべんねい)上人は極楽浄土がいまここを離れてどこか遠い場所が物理的にあると考えるのは間違いで、心の眼が開けばこの現実がそのまま極楽浄土であると説きました。

法然上人は臨終の時に「極楽に行けるのですね」と弟子が質問すると「私は極楽から生まれ、極楽の世界に生きた。また極楽に帰るだけのことである」と答えてます。

阿弥陀の語源は「無限と無量の光」なので、今ここにある光明そのものを意味していました。

極楽浄土は死んだ後の何処か遠い世界ではなく、今ここに在ります。
私たちは今も阿弥陀の光明のただ中にいます。 極楽浄土で暮らしています。
ところが、自我は思考で覆われた闇にいます。思考で光を覆っていることに自我は気がつきません。

仏教ではそれを無明と言っています。
闇はそれ自体で存在しているわけではありません。
闇は自我がつくりだしているので思考で闇を取り払うことはできません。
存在していない闇を思考で消そうとすれば疲れ果てるだけです。闇を消すには智慧の光(プラジュニャー)をもたらすだけで良いのです。

私たちの知覚は思考によって制限されています。
本来の姿から遠く離れた状態で過ごしています。

一つの世界を光と闇に分離して見ているのです。

思考がどのように生じて来るのか
感覚がどのように生じてくるのか
操作する事なく
あるがままに見守ります。

すべての現象は実体がなく
この世界のあらゆる現象はとどまる事なく過ぎ去ります。

感情や思考や体の感覚が川の流れの泡のように一瞬浮かんでは消えていきます。
光を遮っている思考に気づいた瞬間、智慧の光が射します。

そのとき混乱や苦悩という自我の闇は一瞬にして消え去ります。

思考を通さずに世界をあるがままに見た時
分離した世界はどこにもなく
見るものも見られるものもなく
あるがままの全体だけがそこにあります。

全体から全体を引いても全体が残ります。
全体に全体を足しても全体が残ります。
全体は増えることもなく減ることもありません。
全体を分けることはできません。

本当の自分は肉体の生死を超えていて、そして不増不減で空なんです。
極楽を求めてどこかへ行く事はありませんでした。

死んだ後に極楽があるのではなく、自我の覆いに気がつけば極楽はすでにいまここにあります。
一瞬一瞬のいまここを丁寧に生きることが極楽なのです。

阿弥陀の光明によって衆生が救われるということはそういうことだと思います。
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