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2018/09/28

観照



マインドフルネスという言葉が瞑想として紹介されています。

マインドフルネスが頭をフルに使って今という瞬間に集中することと思っている人がいました。
集中は瞑想を得ようと努力している状態です。集中はマインドと同化している状態なので瞑想ではなく瞑想の前段階です。
集中で得られる境地は集中をやめると消えてしまいます。体験しているのはマインドだということにマインドは気がつきません。
瞑想とは思考と同一化しないで、努力することなく観照が起きている状態のことです。

覚醒・自覚・気づき(awareness)観照(witness)禅定(dhyana)光明 (enlightenment) 涅槃(nirvana) 三昧(samadhi) 瞑想(Meditation)非二元(nonduality)これらの言葉は皆、今ここで起きている事に気がついている私たちの本性を示しています。

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先日、来日した瞑想のファシリテーターのマニーシャはインドの神秘家Oshoの晩年の15年の間、彼のそばで過ごしていました。彼女の著書「和尚との至高の瞬間」から紹介します。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784881781661

マニーシャは最初、観照を理解できませんでした。

「自分はマインドそのものだ。いったいどうしたら、それから離れられるというのだろう。どうしたら、それを見つめられるのだろう。和尚は、マインドにエネルギーを与えるからマインドが存在するのだと言うが、それが理解できない。」

マニーシャは何年も継続して様々なOSHOの瞑想を行いました。

ある日マニーシャに観照が訪れました。OSHOの講話を聞いている間、マニーシャは吐き気をともなう頭痛が激しくなり、耳も聞こえなくなり、話すことも、動くこともできくなってしまいました。自分がふたつに引き裂かれる感覚、肉体から離れていく感覚を感じて、何とも言えない恐怖に襲われました。

OSHOの講話が終っても口も聞けず動けないマニーシャの異常な様子に気がついた友人たちは抱きかかえて彼女の部屋に担ぎ込みました。マニーシャはなんとか話そうとしますが言葉が出てきません。頭の中で言葉を組み立てても意味をなさない声がするばかりです。最後にやっと、起こっていることをOSHOに知らせてほしいと伝えましたが、「あの人に伝えて」としか出てきませんでした。OSHOの名前を思い出せなかったのです。

夜になると体の機能が戻ったので夜のダルシャンに行くと、OSHOは愛情に満ちた様子でマニーシャを迎えました。「あなたの名前が思い出せなかったんです!」とOSHOに向かって叫ぶように言うと、OSHOは「初めて、あなたは私が誰なのか知ったというわけだ」とクスクス笑いました。

そしてマニーシャは「小さな悟り」を体験したのだが、マニーシャが高く舞い上がりすぎないように、それをミニと呼ぶのだと次のように話を続けました。

「それは大きな衝撃のエネルギーだった。そして私は最初から何かが起ころうとしていることに気づいていた。あなたは、あるスペースにいた。それはほとんど、LSDを飲まずにLSDのトリップを体験したようなものだ。だからこそ、それはたいへん衝撃的だった。あなたがLSDを飲んだとき、あなたは自分が何をしたのかを知っている。あなたはそれが効いてくるのを待つ。だが、今回のことはあまりにも不意にやってきた。何の警告もなしにやってきた。あなたはそれを待っていたわけではなく、突然それはそこにあった。それは全身を掻き乱す。なぜなら、あなた自身とあなたの肉体の間に、ある距離が生まれ、古い繋がりが失われたからだ」


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次の朝、マニーシャは原稿を編集しようとしましたが文章を読んでいても、頭からすぐに文章が消えてしまうので編集などとてもできませんでした。

頭は空っぽで、考えると思考が静かに頭の中をパレードするかのように横切っては消えました。非常にふわっとした、拡張感を味わっていました。

マニーシャは和尚の庭を見ていました。樹木と融合することもなく、特別な啓示もなく、花々の周囲が輝く神秘的なことも何もなく、興奮している感じも、高揚感もなく、至福といった感じさえなく、マニーシャはただ、いまここに存在していました。

思考に同化している人は観照が何か劇的な体験が起きると思っていますが、そこには体験する人がいないので、ただ沈黙があるだけなのです。

「生まれて初めて心による内側の注釈なしに、ただ直接見ること、直接体験することは、まったく驚異的だった。私と私が見ている物の間には、何も介在しない。私とすべてが、ただ在るがままに存在している」マニーシャ

「後になれば、この体験を至福に満ちたものと説明できたでしょう。その時にはただ広大さであり、沈黙であり、虚無だったのです。」マニーシャ

観照が起きると最初に見守るもの(主体)と見られる者(客体)に分離します。いままで「見られる者(客体)」が自分だと持っていた自分が自分ではないと気が付いた時、古い自分は混乱します。

マニーシャは最初の沈黙に恐怖を覚え、閉所恐怖症のように感じたこともありました。私を飲み込み抹殺しようと脅かす沈黙に向かって叫び、それを切り裂いてバラバラにしてしまいたい衝動を覚えたこともありました。しかし、そのプロセスを止めないであるがままにしておけば自然に治ります。

以前と同じ編集の仕事が出来なくなって心配するマニーシャにOSHOは仕事をする能力は戻ってくるだろう、それとともに、より豊かな創造性がやって来るだろうと勇気付けました。

「あなたはまったく正しい道を行っている。一度も道を間違えなかった。本物でないすべてを、ただ溶かし続けなさい。雲のように感じるのは、素晴らしいことだ。観照そのもののように感じるのは、素晴らしいことだ」OSHO

やがてマニーシャは落ち着きお気に入りのコートに袖を通すように沈黙の中へ入ることができるようになりました。

マインドと同一化している私たちはこれらの言葉を頭で理解しようとします。しかし、観照は私というマインドが沈黙した時に気がつくのです。


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自分がふたつに引き裂かれているようなマニーシャの感覚はマインドからの脱同一化のプロセスを表しています。

心が静まった時、心の水面は鏡の様に景色を映し出し、常に見守り続ける観照者があらわれます。それがミニ悟りです。あるがままに思考全体を見守り続けている観照者が思考を超えた自己です。しかし、そこには観察するものと観察されるものという微妙な二元性が残っています。そして観照にとどまることで非二元にくつろぎます。

物心がついてから今日までの間、絶え間なく浮かんでは消えている思考を自分と思い込んでいます。それに疑いをもちません。しかし、本当の私は思考を超えて見ている意識なのです。思考を自覚する純粋な意識が本当の私なのです。

「観照する者は存在せず、観照のみが存在する。意識のみが存在し、それは人格も伴わないし形も持たない。そこに在るのは、どこからともなく現れ、どこへともなく消える炎のような気づきだ。消えてしまうまでの間だけ、あなたはその炎を見る……。あなたがいなくなる瞬間、観照は純粋なものとなり、この観照が途方もない祝福をもたらしうる」「この観照こそ仏陀だ」OSHO

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考えた瞬間
泡のように
思考が現れて
次の瞬間消えています。
体から感覚が生じては消えています。
まるで川の流れに浮かぶ泡のように

全ての出来事は現れては消えています。
すべての出来事は沈黙の中で起きています。

人々の意識にゆらぎが起きています。
意識のマトリックスの転換が進んで、
自分の思考を自覚することができる
観照の眼を持った人々が増え続けています。
やがて加速がついてその人数が社会を変えることができる臨界値を超えるでしょう。
その時、地球は新しい時代を迎えます。
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