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2018/09/30

盤珪 [とかく思えば皆うそじゃ」



9月30日は江戸時代の名僧盤珪(ばんけい)さんの命日です。盤珪(ばんけい)さんは写真の姫路の龍門寺で入寂しました。

「悪をきらうを善じゃと思う きらう心が悪じゃもの」 盤珪
「善をしたこと善じゃとうじゃる うじゃる心が悪じゃわい」盤珪
「善きも悪しきも一つにまるめ 紙につつんで捨てておけ」盤珪

盤珪さんはやさしい日常の言葉で教えを説いたので大名から庶民にいたるまで幅広い階層の人々の帰依を受けました。樹木希林さんの葬儀が行われた光林寺は盤珪さんの創建で盤珪さんが説法をすると千余の人々でうずまったといいます。鈴木大拙は『禅思想史研究」で不生禅の盤珪さんを高く評価していました。


盤珪さんの有名な短気の問答です。
質問
「それがしは生まれついての短気でございまして、直そうと存じますけれども、これが生まれつきでございまして直りませぬが、これはなんと致したら直りましょうか」
盤珪
「そなたは面白い物を生まれついたのい。今もここに短気がござるか? あらばここへお出しやれ。直して進ぜよう」
質問
「ただ今はござりませぬ。何とぞ致した時に、ひょっと短気が出まする」
盤珪
「しからば、短気は生まれつきではござらぬ。なにかしらのご縁によって、ひょっとそなたが出かすもので、何かした時もそなたが出かさなければどこに短気があるものぞ。そなたが出かしておいて、それを生まれつきというのは難題を親のせいにする大不孝者というものでござる。
生まれつきなら短気は今もあるはず。親から生まれついて持ったものは不生の仏心ひとつで、それ以外のものは一つもありませぬ。一切の迷いは勝手に自分をひいき(自己中心的)にして、自分が思いを起こすからで、それを生まれつきと思うのは愚かでござる。われが思いを出かさなければ短気がどこにもありますまい。ない短気を直すとは無駄なことで、不生の仏心をしれば迷いたくとも迷われませぬ。不生の仏心でござれ。」

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自我はたくさんの記憶や感情、思考で出来ています。頭の中では思考が次々と浮かんでは消え、刻々と変化してとどまるところがありません。思考はうつろい、変化してゆく諸行無常なものです。「あーでもない。こーでもない。」と言っている私はいないのです。

「無為の心はもとより不生 有為が無き故迷い無し」盤珪

実体のない思考を私と思い込んでしまっているのが私たちです。ですから盤珪さんに「短気を出しなさい」と問われても「はいこれです」と差し出すことはできないのです。

盤珪さんの「不生の仏心」とは生まれる事も死ぬ事もない本当の自分のことです。永遠の自己は誰もが生まれつき備わっています。本当の自分に気がつけば思考が自分ではないことがわかるのでマインドに巻き込まれることがなくなります。「不生の仏心」に気がつけば、悟りを得ようと念仏を唱えたり、厳しい修行も坐禅もする必要がないと盤珪さんは教えました。

「仏道修行をつとめし後は 何もかわりは得ぬものを」 盤珪
「迷い悟りはもと無いものじゃ 親も教えぬならいもの」 盤珪
「悟ろ悟ろとこの頃せねば、朝の寝ざめも気が軽い」盤珪

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禅では悟りの境地を『桶の底が抜ける』 と表現します。底が抜けた何もない空っぽの桶は虚空を表しています。思考が現れては消える虚空である空っぽの桶それが自己の本質です。
なかなか桶の底が抜けない探求者はすぐれた師を探して桶の箍(たが)を緩めてもらいます。箍(たが)が緩んでしまえば、あとは時期がくれば底は自然に抜けます。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」盤珪

箍(たが)を緩めるつもりの講釈が人によっては逆に箍(たが)を締めてしまうことがあります。
講釈はマインドを強化してしまいます。究極で桶はありませんが老婆心ながら

「昔思えば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじゃ」 盤珪
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