FC2ブログ
--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2018/10/16

あれも全体 これもまた全体



私たちは成長の段階で、マインド(自我)を形成します。
幼児は本能のおもむくままに行動しますが、
あるがままの自分を否定されると、
愛される自分と愛されない自分に分けてしまいます。

一なるものに境界線が引かれることで病が生じます。
マインドは分離している事に気がつかないので、
母親から離された子供の様に漠然とした不安に襲われます。

マインドは物事に優劣をつけてみています。
マインドは幸と不幸、良い悪い、愉快と不愉快という二元性に分離した思考に囚われています。
マインドは抑圧した影を外側に投影して、自分と他者を切り離して見ています。
マインドは境界を作って内側の自分だけが特別と思っています。
私たちの知覚はマインドによって制限されています。
世界から切り離されているという分離感を現実だと思い込んでいます。

あるがままの世界を分離して見ているのです。
マインドは全体から分離して苦しみ続けます。

その分離感から全体に戻ろうという衝動がおきます。

しかし、戻ろうと思うこと自体が思考なので
そこから抜け出す道はありません。

思考が自分だと思っているので
思考の罠にはまっています。

思考は、今ここにいられません。
未来を悲観して、心が不安におそわれているときは今ここにいません。
今ここにいると思考に気づくことができます。

体が病んで悲観していることに気づいています。
失敗を後悔していることに気づいています。
失って悲しんでいることに気づいています。
将来に対して不安になっていることに気づいています。
思考が次から次へと際限もなく湧き上がってくることに気づいています。
その気づきが私です。

自分という思いは概念であり
他者を非難したり嫌悪しているマインドをあるがままに見ているのが本当の自分だと気がつくと
行為者としての自分は存在しないということがわかります。

いままで自分だと思っていた頭の中の自分はいませんでした。

自分がどこにもいないということは自分はすべてだということです。
すべては虚空であり全体なのです。

自己の全体性を取り戻すと他人の自我も自分の自我も受けいれることができます。

思考は全体を分離させて見ていますが
分離して見ている部分もまた全体なのです。

全体は増えることも減ることもなく
全体から全体を引いても全体が残り
全体に全体を足しても全体が残ります。
全体を分けることはできません。

全体は得ることも失うこともなく
死ぬことも生まれることもありません。

すべての存在は大いなる全体であり
全体以外はありません。

世界をあるがままに見た時
分離した私はどこにもなく
見るものも見られるものもなく
あるがままの全体だけがそこにあります。

『om
あれも全体 これもまた全体
全体より生ずるは 常に全体だからである
全体より全体を取り出すとも
見よ 残るは全体である
om
安らぎよ 安らぎよ 安らぎよ』
イーシャ・ウパニシャッドより

『わしの見地からすれば、
仏もなければ衆生もなく、
古人もなければ今人もない。
得たものはもともと得ていたのであり、
時を重ねての所得ではない。
もはや修得の要も証明の要もない。
得たということもなく、失うということもない。
いかなる時においても、わしにはこれ以外の法はない。』
臨済録より

『是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ)
不垢不浄(ふくふじょう)
不増不減(ふぞうふげん)』
般若心経より

『空を観ずる行為もまた空であって、
空を空と認識することももはや有り得ない。
その認識すら無くなれば、
まさに無の中の無、無の極点に至り、
心は永久に静寂となる』
道教・西派内丹法より

『神は眼に見える形や色を持っていないので
眼からではありません。
音もなくやってくるので耳からでもありません。
空気ではなく精神に混じっているので鼻からではありません。
内側からでも外側からでもありません。
自分よりも高く昇ってみてもそれよりも高い所にいました。
ずっと下の深みにも神はいました。
そして外にも内にもいたのです。』
キリスト教神秘家・聖ベルナルドゥスより

『神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある』
4〜5世紀のキリスト教哲学者アウグスティヌスより
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。