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2018/01/24

空っぽの桶



鎌倉駅から歩いて15分、源氏山公園の近くに海蔵寺という臨済宗建長寺派の寺がある。観光客の姿もなく真冬の大寒に静かに梅の花が咲いていた。

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海蔵寺の右入り口に「底脱の井」(そこぬけのい)と記された小さな泉がある。

そこに千代能の句
「千代能がいただく桶の底ぬけて 水もたまらねは月も宿らず 如大禅尼」と刻まれた石碑が建っている。

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千代能は光明を得た尼として有名である。

伝承によると千代能は鎌倉幕府の御恩奉行を務めた安達泰盛の娘としてこの世に生を受けた。

そして千代能は北条顕時に嫁ぐが、鎌倉幕府内の権力闘争、弘安8年11月17日(1285年12月14 日)の霜月騒動により父と親族の安達一族は滅ぼされてしまい、夫も上総国に流されて失脚してしまった。

その後夫は復権するが胃病を患って1301年に死去した。千代能の息子北条貞顕は鎌倉幕府の15代執権に就任し、娘は足利貞氏の正室となり、嫡子足利高義(足利尊氏・直義の異母兄)を産んでいる。足利高義の子孫には武田信玄がいる。

千代能は夫の死後、出家して僧院の門を叩くが「美しい婦人は若い修行僧の妨げになる」と入門を断われてしまった。

しかし、真理探究の決意の固い千代能は焼きごてで自分の頬を焼いて醜くして、ようやく仏光禅師無学祖元に弟子入りを許されたという。

 千代能は何年にもわたり修行したが、なかなか光明を得ることができなかった。

月が美しく輝くある夜のこと、千代能は古い手桶を持って井戸から水を汲み、手桶の水面に映る満月を眺めていた。

突然、桶をたばねていた竹のたががはずれ、桶の底がすっぽりと抜けて桶はばらばらになってしまった。その時千代能は光明を得たという。

仏教で煩悩は苦しみ原因とされ、一切の煩悩を放下することが悟りの道とされている。

しかし、瞑想中、思考を無くそうとしても、さまざまな思考が次々と湧いて新参の修行者は苦しむ。

思考の囚われから逃れようとして、なんとか除こうと努力するが、それを退けることが出来ない。

思考を取り除こうとすること自体が思考作用なので思考が強くなるばかりで思考がなくならない。

いくら修行しても煩悩がなくならないと、自分の業のあまりにも深く重いことを恨んで挫折してしまう修行者もいる。

しかし、ある程度、修行が進むと瞑想中に喜びを感じるようになる。禅では三禅の境地と呼ばれている。

マインドが静まり意識と無意識の境界の間にエネルギーの回路が開かれると内的な広がりを感じたり、崇高で神聖な感覚に圧倒され意識が高揚する。

何十年も苦しんだ修行者は喜びのあまり大悟したと思い込むのである。

その時に師はすかさず弟子に喝を入れるが、師を持たない修行者は俺は誰よりも優れていると、すっかり自己満足して自我が肥大してしまう。

そうして、エゴを強化したまま悟ったと思い込んだ修行者がグルや教師となり人を支配したり、組織の拡大や物やお金に執着したりSEXスキャンダルに見舞われるのである。

伝統的な修行システムの所はカルト化しにくいが歴史の浅い新興カルトは歯止めが効かないので肥大した自我が暴走して社会問題を起こすのである。

しかし、いくら意識が高揚しても自我が消えてしまっているわけではないので月の満ち欠けのように、しばらくすると流れは下降し、自我が再び姿を現われる。

潮の満ち引きのように隠れていた砂浜のゴミや汚れがあらわれてくる。

いったん意識の高揚を知ってしまうと以前よりも低い位置に陥ったように錯覚してしまう。

美しさと神聖に満ちあふれたヴィジョンや啓示をうけてしまうと、それに強く引きつけられてしまい、もとの日常意識が価値が無いように思えたり、あるいは地獄に堕ちたかのように苦悩するのである。

内的な覚醒のあとに訪れる退行である。

16世紀スペインの神秘家十字架の聖ヨハネは魂の暗夜と名付けた。

その喜び、歓喜、法悦に囚われると、マインドはそれを再び追い求めてしまう。

喧噪を避け静寂を好み静に執着してしまうと、動と静の二元性に分離してしまい、いまここから離れてしまう。

悟りを求めることも煩悩を無くそうとすることも実は思考の産物なのだが、それに気がつかず、巻き込まれてしまうと低次のエネルギーが表層に現れ、再び疑いと不信が頭をもたげるのである。

伝統的なシステムでは、桶の底が抜けない行き詰った修行者は、すぐれた師を探して、桶の釘を抜いたり、たがをゆるめてもらう。

あとは何かのきっかけに、自然と桶の底は抜けてしまう。

もともと桶自体は存在していない。修行者の強固なマインドが作り出していただけである。

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「千代能がいただく桶の底抜けて
水もたまらず月も宿らず」

禅では月や桶は例えとして用いられる。桶の底が抜け水が流れると妄想も私も全てあらゆるものが消え去る。千代能は水に写っている月が自分ではなく本当の自分は空っぽの桶だと言うことに気がついたのである。

盤珪禅師はその境地を次のように詠んでいる。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」

自己の本質とは何もない空っぽの桶のことだ。桶の中に写っている月は本当の自分ではない。頭の中の思考は本当の自分ではない。思考が現れては消える虚空である空っぽの桶それが本当の自己なのだ。

人生の悲劇、喜劇は何も写っていない空っぽのスクリーンで展開している。

そのことに体全体で気がついたとき人は苦悩から真に解放される。



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