FC2ブログ
--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2018/05/08

母系から父系へ 「結婚について 3」

30707002_1905590019503582_6821197060130209792_n.jpg

律令制が確立してからの系譜は全て男系で統一されています。
大化の改新の時の右大臣の名前は蘇我倉山田石川麻呂といいます。蘇我は父系の苗字で麻呂が名前です。倉と山田と石川のいずれかは母方の性と見られています。
実際には奈良・平安時代の子どもは母方の家で育てられる妻問婚が行われていました。
昭和30年代まで妻問婚の名残が行われていたという報告もあります。飛騨高山の伝統的民家には夜に訪れる男性の為の屋根裏部屋への出入り口があるそうです。
平安時代の中頃から男性が女性の元へ通う妻問婚から婿が住み込みで妻の家に同居する婿取婚へ変化していきます。
優秀な男手が欲しい母系の家では夜に通ってきた男の現場を3日目に取り押さえて無理やり餅を食べさせる三日餅という儀式を行いました。女性の家族の一員となる儀式が済むと男性は夜に通う事をやめて公然と出入りして住み着つきました。
これによって男女の関係は自由恋愛ではなくなり、母方の家の父親の意向が強くなり、親の権限による結婚が行われるようになったのです。
婿が妻の家に住む様になると婿の生活費は全て母方の実家が持ち、父方の実家の扶養義務は10世紀頃までありませんでした。
子供は父方の姓を名乗っても母系家族によって養育されました。この時代の結婚とは基本的に婿入りであり、息子はいずれ他家に住み込むものなので家は娘に譲られるのが普通でした。
武家社会の到来によって惣領制という家族制度が起こってきました。その家の正妻が産んだ長男が財産を一人で相続するようになったのです。
妻に対する貞操観念が強くなり、夫方の家に縛られるようになりました。
儒教的な観念において結婚は男子を産むことが最優先であり子孫を残さないことは不幸の最も最たるものでした。その為に女性は子供を産む道具にしか過ぎず、子供を産めない妻は離縁されました。
結婚の決定権は家に握られ、自由恋愛は礼節にふさわしくありませんでした。
武士の時代が終わると明治政府は家父長制を法律で定めました。
「結婚する前は父親に従うべき、結婚したら夫に従うべきで、夫がなくなったら息子に従うべき」と女性は一方的な服従を求められました。
長男が絶対的な権威を持ち、家族に対する統率と財産の管理をして女性は男性に恭順・服従するように強要されるようになったのです。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。