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2018/05/08

家に縛り付けられる女性 「結婚について その4」




縄文時代の男女間は好きな時に一緒になり、嫌になれば離れるのが自由でした。
中央集権が進み律令体制が整えられたのが八世紀です。儒教の影響下にあった中国の制度をそのまま取り入れたのです。人口の増加をはかるために早婚を奨励した年齢がそのまま日本に持ちこまれ、結婚年齢は男子15歳、女子13歳でした。
妻は家に縛り付けられ妻の財産も含めて全ての財産は夫の所有となりました。結婚は家父長が絶対の権限を持ち許可のない自由な結婚は認められませんでした。離婚の請求権は妻になく、女子を産んでも男子を埋めない女性は石女と軽蔑され離婚の対象となりました。

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宮中に住み天皇の寝所にはべる婦人を女御(にょうご)と言いました。女御(にょうご)は名門の貴族から選ばれました。
しかし、歳若いうちから自分から望んだわけではなく父の命令によって天皇の女御(にょうご)なった女性は短命でした。天皇の周りには他の名門貴族から政略により送られた、たくさんの女性がいて、表に出すことの無い、怒り、悲しみ、嫉妬、不満、憎悪が渦巻いていました。
醍醐天皇の女御(にょうご)から白河天皇までの100年くらいの間の女御(にょうご)は15歳から27歳くらいで早死にしています。
藤原道長の六女東宮女御嬉子は18歳で後冷泉天皇を産みますが難産の後2日後に亡くなりました。あらゆる咒、祈祷、真言宗の最高の儀式とされている宮中御修法も読経も甲斐なく息を引き取ったと言います。狂った『もののけ』に取り憑かれて死んだことになっています。
鉛の入った化粧と厚着をして室内の中ばかりいてたいした運動もせず、楽しむことがない生活は精神的にも肉体的にも健康に良いわけがありません。
年若くして結婚、出産に伴う病気で亡くなる女御は多かったようです。
ただ庶民の世界では妻問いが平安時代まで行われていました。
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