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2018/05/20

宮沢賢治と仏教4

草木までが仏になるという山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)という仏教の言葉があります。
しかし、山川草木悉皆成仏という言葉はどの仏典にも日本の古典にも全く載っていないのです。
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大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)にすべての生き物は仏性をもっているという意味の一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言葉が出てきます。
ところがインドの経典で草木や石ころは意識のない無情なので仏性はないとされています。仏性があるのは意識のある有情すなわち動物と人間だけ。
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草木だけでなく塵や石ころまでに仏性があると説いたのは中国天台宗の第6祖湛然(たんねん)(711年 - 782年)です。最澄は「木石仏性」といい日本の天台宗に受け継がれました。
空海もまた「草木也成。何況有情」と草木も成仏すると言っています。そして「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉が天台密教を確立した安然あんねん(841~ 不明)によって出てきます。
「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」は室町時代の能の謡曲に盛んに使われました。
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親鸞は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」と書いています。
そして、哲学者の梅原猛さんによって国という文字が入ると環境思想にふさわしくないので山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく こくどしっかいじょうぶつ)として60年代から使われたようです。
賢治は大正七(1918)年五月十九日の保阪嘉内あて書簡63「一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ」と書簡76「わが成仏の日は山川草木みな成仏する」で書いています。
「すべてのものに生命が宿る」という考え方をアニミズムといいます。縄文はこのアニミズム、精霊信仰をもっていました。
縄文以来、すべてのものに精霊が宿ると考えてきた日本人にとって、山川草木すべてに仏性が宿る考えは受け入れやすかったのです。

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比叡山天台宗には誰もが本来悟っているという本覚思想がありました。本覚(ほんがく)というのは本(もと)から覚っているという意味です。
人々は生まれながら永遠の存在である仏と同じ本覚を持っています。
しかし本当は悟っていても煩悩に覆われてしまい、それがわからなくなってしまっていることを不覚といいます。そこで次第に煩悩を取り除いて悟りに到達する事を始覚と言いました。
本覚はありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別にもとめる悟りはないという考えです。
ですから悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを開くことは非常に低次元のことで始覚門とよばれました。
すでに悟っているので修行は不要と思ってしまうと、向上心は薄れ、安易な現状肯定になってしまいます。いつのまにか、そのままで現実に悟りを開いているということになってしまいました。
中世の時代は僧兵が幅を利かせ武力による権力闘争を繰り返していました。僧兵のいいぶんはこうでした。
「もともと罪などというものはない、罪があると思うのは妄想である。自分の心はもともと清いので仏である。」と僧侶はうそぶいて欲望のままに乱暴狼藉の数々を働いたのです。

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比叡山に天台宗を開いた最澄と論争(817年から821年頃)した徳一という僧侶がいました。
徳一は仏性をもたない人がたくさんいるので全ての人が仏になれるのはおかしいといいました。仏性をもっているのは一部の人で、その仏性をもっている人でさえも難行、苦行した末にやっと仏になれると言ったのです。
徳一は南都六宗(奈良仏教)の立場の人でした。華厳経には52もの修行の段階が示されていて、十信・十住・十行・十回向という四十もの段階を経て始めて最後の菩薩道に入る事ができるとされています。
その50段目の十段階を「十地」と呼んでいます。その「十地」の最初の一番下の段階、歓喜地に達したのは中観のナーガジュルナ(龍樹)と唯識のアサンガ(無著) のたったの二人しかいないとされています。
菩薩の最高位になる51段目の「等覚」に達するまで「十地」があと九つの段階があるのです。
そして最後の52段目の「仏覚(ぶっかく)」に達したのは地球上ではお釈迦様しかいないとされています。つまり一般大衆が最高の悟りを得ることはほとんど不可能な事なのです。

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本覚は昔から論争の種でした。
本覚思想が発展する前には悟りを得るのは難しく限られた特別の人だけだとする考えがありました。
悟りを開いていない衆生つまり、私たち、一般社会人は世俗の仕事に忙しく、修行を続けても、いったい、いつになったら悟りが開けるの判りません。その点、もともと誰でも仏性が内在しているのであればそれを表に出せばよいので希望があり、修行の励みになります。
それが中国から日本に伝わる間にいつのまにか仏性が全面に出て来て、すでに悟っているのだから修行は不要の本覚になってしまったのです。
当然、極端に展開した本覚思想は批判されることになりました。言葉だけによる教えの危険性がここにあります。
月を示す指は方便であって月ではありません。悟っている人にとっては真実でも、探求者にとっては「あなたは悟っている」は方便でしかないからです。
それは薬と同じで適切に使用すれば病が癒されますが使用を誤ると毒になってしまうのです。

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探求の道では真実を求める欲望だけが唯一正しい欲望として奨励されます。修行して、さまざまな瞑想体験を積み重ねて、もうそれ以上何処にも行かない地点まで達した時、何をやっても行きづまってしまった時、努力そのものが障害になっていることに気がつきます。
そのときにはじめて努力を落とすことができます。
最初から努力を放棄したならば、それはただの現状維持になってしまい病は癒えないでしょう。
「私は悟っている」「私は完璧だよ」「私は大丈夫」と唱えて、自分に言い聞かせても、無意識の中に未完了の否定的なトラウマがあれば、その人は巻き込まれて簡単に暗黒の世界に落ち込んで苦しみます。
ダークサイドに落ちたスターウォーズのシスのように。

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あらゆる精神的な道は薬のように、あるときは正しく使うと病を癒し、間違うと悪化してしまうので相対的です。そして、究極において全ての人はどんな治療を施しても必ず死亡します。
最澄も徳一のどちらも正しくて間違っているのでした。
本覚思想を学んだ鎌倉仏教の祖師たちは比叡山から出て独自の道を歩みました。

「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」岡田 真美子
http://www.indranet.jp/produ…/2002.11.16shituubussyouron.pdf
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