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2018/05/20

宮沢賢治と仏教4

「すべてのものに生命が宿る」という考え方をアニミズムといいます。縄文はこのアニミズム、精霊信仰をもっていました。
貝塚は縄文人のゴミ捨て場と思われていました。貝塚からは貝殻や獣や魚の骨などの食料のほか、破損した土器や石器、骨角器などの道具類などが大量に出土しています。
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縄文人はあらゆるものに霊が宿ると考えていました。宇宙は円環になっていて、その輪の中で生死は循環しています。
モノノケとはモノとケが合体した言葉です。 古代の人々はモノを単なる物質的存在ではなく、霊的な存在として捉えていました。 ケとキは異語同義語で、中国でキ(気)は潜象エネルギーを表しています。
人間も動物だけでなく道具も全て死ぬと霊となってあの世に帰って行きます。そして魂を無事にあの世に送るために祈りの儀式をしました。そうして、再生してこの世に戻ってくるのです。
貝塚は神聖な祈りの場だったのです。
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昔の日本人は木の根元にお神酒を注いで山の神の許しを得てから、木を切っていました。日本人の心には縄文の「すべてのものに生命が宿る」という考えが受け継がれていました。
仏教が入ってくると平安時代に人間や動物はだけでなく山や川や草や木も石も、すべて成仏できるという天台本覚思想が現れました。
仏教は日本に入ると縄文のアニミズムと同じ考え方になりました。
賢治の中では全ての生きとし生けるものに仏性がある仏典の言葉「悉有仏性(しつうぶっしょう)」と縄文のアニミズムが一つになっていました。

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「どんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから」〔手紙 四〕

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大正9年、賢治は国柱会の会員になり熱心に法華経の普及に努めました。
国柱会を興した田中智學が日本書紀の神武天皇から取り出した言葉に「八紘一宇(はっこういちう)」があります。
「一宇(いちう)」は「同じ一つの屋根」という意味で田中智學の「八紘一宇」は天皇も国民も法華一乗による世界の統一を意味していました。
それが二・二六事件の青年将校の決起文で「八紘一宇」が使われてから流行語になり、天皇を中心とするアジアの統治に使われた軍国主義の言葉ということで、戦後GHQによって八紘一宇の語の使用が禁止されしまった経過がありました。
満州事変に関わった関東軍参謀の石原莞爾は国柱会の熱心な信者でした。
国柱会=軍国主義に加担した右翼というイメージがあり、国柱会の熱心な信者となった賢治をどのように評価したらよいのか困惑する人もいると思います。
賢治が国粋主義者を尊敬していては困るわけです。賢治と国柱会が関係ないことにしたいところですが、生涯に渡って賢治は会員でした。

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賢治は父親に日蓮宗への改宗を迫り失敗、口では南無阿弥陀仏と唱えながら質屋と古着屋を続けて貧しい人から搾取する父親に反発して家出した時期に賢治は国柱会に入信しているので、大正9年の頃の賢治は相当な興奮状態にありました。
「今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。」(保阪嘉内あて書簡)
「間違えた教えによる人はぐんぐん獣類にもなり魔の眷属にもなり地獄にも落ちます」(宮本友一あて書簡)
この辺りの賢治のマインドは折伏(しゃくぶく)を信仰の実践とする国柱会の影響を強く受けていました。
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そして親友の保阪にも国柱会に熱心に何回も勧誘を迫りました。「早く形だけでも日蓮上人の門下になって、憐れな衆生を救おうではありませんか。そうしないと地獄の火に焼かれますよ」と書いていますから、保阪にとって迷惑な話だったと思います。
保阪は入信を断り二人の中はついに決裂しました。
親友に去られて相当なショックを賢治は受けたと思います。
そして、生活費を切り詰めた賢治の東京の生活はジャガイモと水だけという極端な粗食のため栄養失調による体調不良にも陥っていました。
賢治は精神的にも経済的にも肉体的にも追い込まれていたと思います。
リルケは失恋の痛手を詩に変えました。
賢治もまた親友を失った欠落感、父親との葛藤、妹トシの死、これらの悲しみ、苦しみを童話や詩に昇華しました。
大正十年から十二年にかけて賢治は爆発するように生涯の作品の6割をこの三年間で書いています。
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無意識から湧き上がる衝動に気がついたのなら、他人に暴力的になったり自分を傷付けるのではなく歌や踊り、絵画や詩などの芸術を通して、否定的だったエネルギーを変容させて創造的に昇華することができます。
最悪と思える事態でも振り子の針が反対に振れると最良の効果をもたらします。
「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」賢治(書簡165)
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