2018/05/08

「白拍子」 舞と踊り 5」

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平安時代末期から鎌倉時代にかけて白拍子と呼ばれた男装の舞妓がいました。
平家物語の平清盛の寵愛を受けた祇王祇女と仏御前、源義経と連れそった静御前は特に有名です。
後鳥羽法皇が抱えていた白拍子亀菊は親鸞・法然が流罪になる原因を起こしたり、亀菊に所領として与えた地頭を罷免するように後鳥羽法皇が鎌倉幕府に要求したことで、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力の争い「承久の変」が起きています。
白拍子とは旋律とリズムの拍子のことで白拍子は神事として使われていました。
100日の日照りの時に神泉苑で白拍子が雨乞いの舞を舞うと雨音が大きく響いて三日間も続く雨が降ったという説話があるように、白拍子は神事芸能の傀儡をルーツにしていました。
天皇家の「遊部(あそびべ)」は葬式の時に刀を負い矛を持った女の禰義(ねぎ)と刀を背負って酒食を持った女の余此(よし)が呪文を唱えて棺を周っていました。のちに刀と矛は女に向かないといって夫に変わる話が伝わっています。
「大山寺縁起」には白拍子という遊女がいたが不浄があるので追放したという記述があります。平安鎌倉と時代の経過に従って神事から女性は追放され男性が独占するようになったのです。


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こうして、神事から追放された女性の中には共同体を作り、定住して仕事に就かず山から山へ芸能をしながら漂白の旅を続けた人たちもいたようです。
それでも遊女、傀儡、白拍子たちは教養が高く公家の家に出入りしては即興で和歌を詠んで和歌集に入るものもいました。
更科日記には足柄山を通過した時に遊女の歌を聞いて感動した話が出てきます。月もなく暗い夜に身なりも小綺麗にした15と20、50ばかりの美しい3人の遊女が現れて、唐傘をさして、火を灯し、美しい声で上手に歌ったので、人々はたいそう感動してもてはやしました。歌い終わった遊女たちが暗くて怖い山の中に帰ってゆく光景をいつまでも見送ったのでした。「こはた」という遊女の孫だと名乗っているので、遊女たちが母親から娘へと受け継がれる母系だったということがわかります。
2018/05/08

「ヒルコとえびす」舞と踊り 4

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平安時代後期の公卿、大江匡房(おおえまさふさ)によると男女の芸能集団が傀儡で女性だけの芸能集団を遊女と呼んだようです。白拍子、歩き巫女、傀儡が信仰する神は百太夫でした。

宇佐神宮の末社の百太夫は隼人族が捕虜となって斬首された霊を祀る首塚に建てられていました。

傀儡たちが信仰する百太夫神は八幡信仰の広がりとともに西日本に広がって行きました。

石清水八幡宮にも住吉大社と広田神社にも末社として百太夫社があったことが書かれています。広田神社の末社だった西宮神社は現在ではえびす神社の総本社として本社を凌ぐ賑わいを見せています。

西宮神社の傀儡子たちが「えびす廻し」「えびすかき」と呼ばれる「えびす舞」を全国各地で公演する事で、えびす神は各地に普及しました。

西宮神社では「蛭子祭」と綴ってエビス祭りと読ませているように「えびす神社」の主な主祭神にヒルコとオオクニとコトシロヌシが祀られています。

イザナギとイザナミが最初に産んだ子がヒルコです。しかしヒルコは不完全だったので海へ流されてしまいました。

祝詞の後半で浅瀬にいる禍津日神(まがつひのかみ)=瀬織津姫がこの世のあらゆる罪穢れを引き受けて大海原に持ち去っていくと語られています。

これは海に流されたヒルコの話と同じです。

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海に没した隼人を供養するように八幡神が宣託して傀儡たちの放生会が始まった事とヒルコが重なります。また海中の石となった和多都美(ワタツミ)神社の御神体「いそらえびす」は八幡縁起で語られる海中の石舞台となった海人族の祖、阿曇磯良(あずみの いそら)=百太夫神と同じです。

出雲族のコトシロヌシもまた国譲りの後、海の彼方に去っています。

ヒルコが不完全だった理由が女性のイザナミが声をかけたからだとされているのは男性原理が優位になる前の母系の先住民、海人族のことにも思えます。

ここでヒルコ=えびす=いそらが繋がります。海に流されたヒルコは母系の先住民わたつみ族のことを表していました。

ヒルメを先祖とする天孫族に国を譲ってヒルコを先祖とするわたつみ族は海中に没して精霊となったのでした。

罪、穢れを背負ったヒルコは海に流して祀ることで、罪が祓われ人々に福がもたらされました。

傀儡たちは祭礼の時に「えびす舞(傀儡舞)」を舞うことで人々の穢れを引き受け、それを神に捧げる舞で神様にお渡して、罪穢れを祓ったのです。
2018/05/08

歩き巫女 舞と踊り 3



身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。平安時代の書物に巫女がしばしば登場します。
その中に信仰の伝道師として各地を旅から旅へと歩き回る歩き巫女がいました。
古代は禊祓いの鎮魂儀礼のことを「遊び」といいました。
万葉集では遊行女婦(うかれめ)と呼ばれ、、傀儡女(くぐつめ)や白拍子(しらびょうし)とも呼ばれています。
のちに遊女(あそびめ)は売春婦の意味になってしまいましたが、遊女(あそびめ)は旅をして神事芸能を披露する女性たちのことで、平安の頃には天皇や貴族たちの席で即興で歌を詠んだり舞を舞ったりしていました。
後白河法皇は、遊女・傀儡女・ 白拍子などを御所に呼び寄せて今様(平安時代の歌)を吟じ、歌いすぎて喉を痛めるほど芸能好きでした。
ついには70歳を超える傀儡女・乙前(おとまえ)を歌の師と仰ぎ御所に住まわせています。乙前(おとまえ)がこの世を去ると後白河法皇は命日にいつも歌を謠って傀儡女を弔ったと伝えられています。
傀儡女たちの共同体は母系相続だったようです。



日本書紀に中臣烏賊津(なかとみいかつ)が神託を判断する審神者(サニワ)となり武内宿禰が琴を奏でる中で神功皇后が神がかる話が出てきます。
古代の神がかりは琴師と審神者(サニワ)と巫女の組み合わせで行われていました。それは春日大社の囃子の役を持つ神楽男と琴師と舞を舞う巫女で行われる神楽の構成に現れています。
歩き巫女の中に各地を放浪して梓弓の弦を響かせて神降ろしをする「梓巫女( あずさみこ)」がいます。
古代ギリシャでは音楽を使い宇宙の音と共鳴させて分離していた心身が全体とひとつになるイニシエーションをしていました。竪琴の名手オルペウスは生きながら黄泉の国と人間界を自由に行き来き出来ました。
宇宙は音で出来ています。その音と共鳴する事によって自我の境界を超えた無限の存在である事を知るのがナーダ・ヨガ(音のヨガ)です。
先住民の世界には音楽や踊りでトランス状態に入り、日常意識を超えた精霊と情報を交換するシャーマニズムの文化がありました。
物事に優劣のランクをつけている自我は境界線という障害を作ってエネルギーの流れを阻害します。
自分と他者を切り離して見ている間は分離があるので葛藤がやむことがありません。
自我という境界がなくなり融合が起こると
時間と空間を超えた
無限の沈黙と静寂に気がつきます。
過去も未来もなく永遠の今だけがあります。
境界がなく、分け隔てがありませんので
それを無条件の愛と言ってもいいと思います。
自我の境界を超えて宇宙意識と融合した芸能の名手は古来からいたと思います。
2018/05/08

舞と踊り 2 「巫女」

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縄文から弥生そして古墳時代のヤマト王権が成立以前の先住民に出雲族・海人族がいました。その痕跡は地下水脈のように神事芸能の舞の中に残されていました。

九州の志賀海神社・宮地嶽古墳・宇佐神宮・和間神社を訪ねたことで傀儡ことが明らかになってきました。奈良時代の神仏混合により全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されました。そして、八幡神信仰の広がりと共に傀儡舞が禊や祓いの神事芸能として伝播・保存されるようになったのです。

身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。平安時代の書物に巫女がしばしば登場します。

平将門が新皇と称することも巫女の託宣によっています。鎌倉の鶴ケ岡八幡宮でも神楽のあと八幡大菩薩の託宣を巫女が頼朝のころ鎌倉幕府にしています。中世の時代は皇族・公家から武士、知識階級である高僧に到るまで吉凶の判断を行う巫女の託宣を信じていました。

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神仏混合の巫女は神社も仏教のお寺にもいて巫女が舞、男神子が囃子を担当して祈祷や吉凶を占う神子集団を形成して収益をあげていました。

能楽の「葵の上」のように山伏と巫女がペアを組み、巫女が霊をおろして、山伏が加持祈祷で追い払うということも行われていたようです。

しかし、分配されていた収益は利権化が進み特定の男神子が主導権を握るようになり、息子に世襲化されるようになりました。

神仏習合の霊地は女人禁制となり神楽も男性だけが踊るようになったのです。男性が女の面をつけて踊るのは女性が祭祀の主導権を握っていた時代の痕跡でした。
2018/05/08

女性の財産権 「結婚について その5」




地域集団が父系の原理に基づいている社会では嫁に来た女性は「よそ者」でした。自分の生家の親兄弟や親戚との結びつきの方が強く、他の親族集団への帰属意識が弱いので、嫁は子供ができるまでは、夫の氏族の一員とみなされませんでした。
平安末から鎌倉初頭は荘園を支配する女性の領主や風早禅尼深妙という女地頭もいました。財産の相続権や所領の知行権が妻にも与えられていたので、夫の死亡後に家督財産をうけついだ女御家人もいました。
母系と父系が混在するようになると女性の財産の帰属について問題が生じるようになりました。女子に所領を与えてのち、婿家の夫が敵になることもありました。
女子は武人としての奉公ができないので、元寇の頃から西国の御家人に対して女子への財産譲与を禁止する法令が出されています。
妻の不貞は厳罰に処せられ、夫の死後においても貞操を要求し、再婚するのは貞操心を忘れた不届きのことだから、その時は亡夫から譲得の所領を亡夫の子息に返すべきだと定められています。そして、妻にのみ貞操を要求しながら夫は妾を盛んに囲っていました。
公家たちは婿取婚を保っていましたが、鎌倉から室町時代は婿取婚から嫁取婚に変わる過度期にあたり、武家たちは部下や弱隣の武家に対して略奪、召上、進上等の嫁取り婚を要求していました。

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応仁の乱以降、相次ぐ戦乱により社会の秩序は乱れて殺伐となり、女性を路上で奪う乱暴なことが天下御免のこととして頻繁に行われるようになりました。女捕り、辻取り、拐かし(かどわかし)などと呼ばれていました。
鎌倉末期ごろから正式な婚姻関係から生まれた嫡出(ちゃくしゅつ)にのみ全財産を相続させる方法が現れ室町時代以降には一子相続が一般的慣行となり、女子の財産権消失と同時に女人禁制が現れ女性の社会的地位は急速に衰退していったのです。
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