2018/05/08

歩き巫女 舞と踊り 3



身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。平安時代の書物に巫女がしばしば登場します。
その中に信仰の伝道師として各地を旅から旅へと歩き回る歩き巫女がいました。
古代は禊祓いの鎮魂儀礼のことを「遊び」といいました。
万葉集では遊行女婦(うかれめ)と呼ばれ、、傀儡女(くぐつめ)や白拍子(しらびょうし)とも呼ばれています。
のちに遊女(あそびめ)は売春婦の意味になってしまいましたが、遊女(あそびめ)は旅をして神事芸能を披露する女性たちのことで、平安の頃には天皇や貴族たちの席で即興で歌を詠んだり舞を舞ったりしていました。
後白河法皇は、遊女・傀儡女・ 白拍子などを御所に呼び寄せて今様(平安時代の歌)を吟じ、歌いすぎて喉を痛めるほど芸能好きでした。
ついには70歳を超える傀儡女・乙前(おとまえ)を歌の師と仰ぎ御所に住まわせています。乙前(おとまえ)がこの世を去ると後白河法皇は命日にいつも歌を謠って傀儡女を弔ったと伝えられています。
傀儡女たちの共同体は母系相続だったようです。



日本書紀に中臣烏賊津(なかとみいかつ)が神託を判断する審神者(サニワ)となり武内宿禰が琴を奏でる中で神功皇后が神がかる話が出てきます。
古代の神がかりは琴師と審神者(サニワ)と巫女の組み合わせで行われていました。それは春日大社の囃子の役を持つ神楽男と琴師と舞を舞う巫女で行われる神楽の構成に現れています。
歩き巫女の中に各地を放浪して梓弓の弦を響かせて神降ろしをする「梓巫女( あずさみこ)」がいます。
古代ギリシャでは音楽を使い宇宙の音と共鳴させて分離していた心身が全体とひとつになるイニシエーションをしていました。竪琴の名手オルペウスは生きながら黄泉の国と人間界を自由に行き来き出来ました。
宇宙は音で出来ています。その音と共鳴する事によって自我の境界を超えた無限の存在である事を知るのがナーダ・ヨガ(音のヨガ)です。
先住民の世界には音楽や踊りでトランス状態に入り、日常意識を超えた精霊と情報を交換するシャーマニズムの文化がありました。
物事に優劣のランクをつけている自我は境界線という障害を作ってエネルギーの流れを阻害します。
自分と他者を切り離して見ている間は分離があるので葛藤がやむことがありません。
自我という境界がなくなり融合が起こると
時間と空間を超えた
無限の沈黙と静寂に気がつきます。
過去も未来もなく永遠の今だけがあります。
境界がなく、分け隔てがありませんので
それを無条件の愛と言ってもいいと思います。
自我の境界を超えて宇宙意識と融合した芸能の名手は古来からいたと思います。
2018/05/08

舞と踊り 2 「巫女」

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縄文から弥生そして古墳時代のヤマト王権が成立以前の先住民に出雲族・海人族がいました。その痕跡は地下水脈のように神事芸能の舞の中に残されていました。

九州の志賀海神社・宮地嶽古墳・宇佐神宮・和間神社を訪ねたことで傀儡ことが明らかになってきました。奈良時代の神仏混合により全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されました。そして、八幡神信仰の広がりと共に傀儡舞が禊や祓いの神事芸能として伝播・保存されるようになったのです。

身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。平安時代の書物に巫女がしばしば登場します。

平将門が新皇と称することも巫女の託宣によっています。鎌倉の鶴ケ岡八幡宮でも神楽のあと八幡大菩薩の託宣を巫女が頼朝のころ鎌倉幕府にしています。中世の時代は皇族・公家から武士、知識階級である高僧に到るまで吉凶の判断を行う巫女の託宣を信じていました。

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神仏混合の巫女は神社も仏教のお寺にもいて巫女が舞、男神子が囃子を担当して祈祷や吉凶を占う神子集団を形成して収益をあげていました。

能楽の「葵の上」のように山伏と巫女がペアを組み、巫女が霊をおろして、山伏が加持祈祷で追い払うということも行われていたようです。

しかし、分配されていた収益は利権化が進み特定の男神子が主導権を握るようになり、息子に世襲化されるようになりました。

神仏習合の霊地は女人禁制となり神楽も男性だけが踊るようになったのです。男性が女の面をつけて踊るのは女性が祭祀の主導権を握っていた時代の痕跡でした。
2018/05/08

女性の財産権 「結婚について その5」




地域集団が父系の原理に基づいている社会では嫁に来た女性は「よそ者」でした。自分の生家の親兄弟や親戚との結びつきの方が強く、他の親族集団への帰属意識が弱いので、嫁は子供ができるまでは、夫の氏族の一員とみなされませんでした。
平安末から鎌倉初頭は荘園を支配する女性の領主や風早禅尼深妙という女地頭もいました。財産の相続権や所領の知行権が妻にも与えられていたので、夫の死亡後に家督財産をうけついだ女御家人もいました。
母系と父系が混在するようになると女性の財産の帰属について問題が生じるようになりました。女子に所領を与えてのち、婿家の夫が敵になることもありました。
女子は武人としての奉公ができないので、元寇の頃から西国の御家人に対して女子への財産譲与を禁止する法令が出されています。
妻の不貞は厳罰に処せられ、夫の死後においても貞操を要求し、再婚するのは貞操心を忘れた不届きのことだから、その時は亡夫から譲得の所領を亡夫の子息に返すべきだと定められています。そして、妻にのみ貞操を要求しながら夫は妾を盛んに囲っていました。
公家たちは婿取婚を保っていましたが、鎌倉から室町時代は婿取婚から嫁取婚に変わる過度期にあたり、武家たちは部下や弱隣の武家に対して略奪、召上、進上等の嫁取り婚を要求していました。

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応仁の乱以降、相次ぐ戦乱により社会の秩序は乱れて殺伐となり、女性を路上で奪う乱暴なことが天下御免のこととして頻繁に行われるようになりました。女捕り、辻取り、拐かし(かどわかし)などと呼ばれていました。
鎌倉末期ごろから正式な婚姻関係から生まれた嫡出(ちゃくしゅつ)にのみ全財産を相続させる方法が現れ室町時代以降には一子相続が一般的慣行となり、女子の財産権消失と同時に女人禁制が現れ女性の社会的地位は急速に衰退していったのです。
2018/05/08

家に縛り付けられる女性 「結婚について その4」




縄文時代の男女間は好きな時に一緒になり、嫌になれば離れるのが自由でした。
中央集権が進み律令体制が整えられたのが八世紀です。儒教の影響下にあった中国の制度をそのまま取り入れたのです。人口の増加をはかるために早婚を奨励した年齢がそのまま日本に持ちこまれ、結婚年齢は男子15歳、女子13歳でした。
妻は家に縛り付けられ妻の財産も含めて全ての財産は夫の所有となりました。結婚は家父長が絶対の権限を持ち許可のない自由な結婚は認められませんでした。離婚の請求権は妻になく、女子を産んでも男子を埋めない女性は石女と軽蔑され離婚の対象となりました。

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宮中に住み天皇の寝所にはべる婦人を女御(にょうご)と言いました。女御(にょうご)は名門の貴族から選ばれました。
しかし、歳若いうちから自分から望んだわけではなく父の命令によって天皇の女御(にょうご)なった女性は短命でした。天皇の周りには他の名門貴族から政略により送られた、たくさんの女性がいて、表に出すことの無い、怒り、悲しみ、嫉妬、不満、憎悪が渦巻いていました。
醍醐天皇の女御(にょうご)から白河天皇までの100年くらいの間の女御(にょうご)は15歳から27歳くらいで早死にしています。
藤原道長の六女東宮女御嬉子は18歳で後冷泉天皇を産みますが難産の後2日後に亡くなりました。あらゆる咒、祈祷、真言宗の最高の儀式とされている宮中御修法も読経も甲斐なく息を引き取ったと言います。狂った『もののけ』に取り憑かれて死んだことになっています。
鉛の入った化粧と厚着をして室内の中ばかりいてたいした運動もせず、楽しむことがない生活は精神的にも肉体的にも健康に良いわけがありません。
年若くして結婚、出産に伴う病気で亡くなる女御は多かったようです。
ただ庶民の世界では妻問いが平安時代まで行われていました。
2018/05/08

母系から父系へ 「結婚について 3」

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律令制が確立してからの系譜は全て男系で統一されています。
大化の改新の時の右大臣の名前は蘇我倉山田石川麻呂といいます。蘇我は父系の苗字で麻呂が名前です。倉と山田と石川のいずれかは母方の性と見られています。
実際には奈良・平安時代の子どもは母方の家で育てられる妻問婚が行われていました。
昭和30年代まで妻問婚の名残が行われていたという報告もあります。飛騨高山の伝統的民家には夜に訪れる男性の為の屋根裏部屋への出入り口があるそうです。
平安時代の中頃から男性が女性の元へ通う妻問婚から婿が住み込みで妻の家に同居する婿取婚へ変化していきます。
優秀な男手が欲しい母系の家では夜に通ってきた男の現場を3日目に取り押さえて無理やり餅を食べさせる三日餅という儀式を行いました。女性の家族の一員となる儀式が済むと男性は夜に通う事をやめて公然と出入りして住み着つきました。
これによって男女の関係は自由恋愛ではなくなり、母方の家の父親の意向が強くなり、親の権限による結婚が行われるようになったのです。
婿が妻の家に住む様になると婿の生活費は全て母方の実家が持ち、父方の実家の扶養義務は10世紀頃までありませんでした。
子供は父方の姓を名乗っても母系家族によって養育されました。この時代の結婚とは基本的に婿入りであり、息子はいずれ他家に住み込むものなので家は娘に譲られるのが普通でした。
武家社会の到来によって惣領制という家族制度が起こってきました。その家の正妻が産んだ長男が財産を一人で相続するようになったのです。
妻に対する貞操観念が強くなり、夫方の家に縛られるようになりました。
儒教的な観念において結婚は男子を産むことが最優先であり子孫を残さないことは不幸の最も最たるものでした。その為に女性は子供を産む道具にしか過ぎず、子供を産めない妻は離縁されました。
結婚の決定権は家に握られ、自由恋愛は礼節にふさわしくありませんでした。
武士の時代が終わると明治政府は家父長制を法律で定めました。
「結婚する前は父親に従うべき、結婚したら夫に従うべきで、夫がなくなったら息子に従うべき」と女性は一方的な服従を求められました。
長男が絶対的な権威を持ち、家族に対する統率と財産の管理をして女性は男性に恭順・服従するように強要されるようになったのです。